花粉症って治るの?

私の花粉症歴は20年。

子どもの頃は一番好きな季節だった春も、今となっては早く過ぎてほしい季節に他ならない。

眼鏡、マスクはもちろん、通院したこともあるし、漢方薬、点鼻薬、目薬、乳酸菌、甜茶、シソ、良さそうなものは本当にいろいろやってみた。それを一本打てば1シーズン大丈夫、という注射を打ってみたこともある。

そんな年季の入った私の花粉症であるが、ここ数年、完全にではないが、劇的に症状が軽減しているのだ。

確かに、以前は花粉症についての知識がまるでなく、非常に無防備であった、ということもある。今は、2月半ば頃から洗濯物も布団も部屋干し、寝室には空気清浄器を設置している。

けれども、自分自身、どこが転機だったかと考えたら、妊娠、出産だったと思うのだ。そして私はずっと、「子どもを産むと体質変わるって聞いたことあるけど、きっとそのせいなんだな」と思っていた。

ところが昨日、なにげなく Yahoo を見ていたら、「Yahoo 知恵袋」というところに、「花粉症は治るの?」というトピックが出ていた。そしてそれに対してみんなが回答を投稿するのだが、ベストアンサーに選ばれていた回答は非常に興味深かった。

ひどい花粉症に悩まされていた人が、食生活を見直し、改善したところ、ほとんど症状がなくなった、というのである。基本は「マゴハヤサシイ」だそうだ。

私はそれか!と納得してしまった。妊娠、出産が直接的な転機ではなかった。花粉症のことは何も考えていなかったが、私も子どもができたのを機に、食生活にすごく気を遣うようになっていたのだ。

今まで平気で食べていた食品添加物だらけの食べ物をほとんど食べなくなり、買い物をするときは必ず原材料をチェックするようになった。

そして、「らでぃっしゅぼーや」という安全な食材の宅配を始めた。「らでぃっしゅぼーや」は毎週一箱おまかせで種々の野菜や果物が届くシステムになっているのだが、その野菜は一生懸命に食べないと食べきれない位の量で、破棄するのがもったいないから結果的に外食をあまりしなくなった。以前は朝はパンとコーヒーだけ、なんていう日もあったが、今はとにかく食べきりたいのでがんばって何かしら作っている。おまかせ野菜の中には初めて買うような珍しい野菜も時々あり、「どうやって使うのかな?」と調べたりすることでレパートリーも自然に増えてきた。

宅配はけっこう割高なので、始めた頃は月々の食費が非常に心配だった。しかし、結果的には宅配でほとんどまかなえるため、あまりスーパーに行かなくなって、食費が減っていたのである。なぜなら、スーパーというところは非常に魅力的で、行けばついつい余計なものを買っているからだ。

ちょっと話がそれてしまったが、子どもがきっかけで食の安全につとめるようにしてきたわけだが、結果的には自分自身が花粉症の軽減という大きなプレゼントをもらっていたことになる。

餃子の事件などあり、世間的にも食についての意識が高まっているところであると思うが、食事は本当に命を作る基本中の基本であり、自分の体の中に入れるものには自分で責任をとらないといけないんだな、と改めて考えされられた。

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地球環境と国民意識

昨日、古館伊知郎さんの「地球危機2008」を見た。見た、といっても運転中だったので音声だけで。環境については日頃から考えているつもりの自分でも、すごく考えさせられた。自分に何ができるんだろう、たいしたことはできない。でも何かしなければ・・・。

地球危機2008ホームページ

自分たちの何気ない暮らしぶりで、痛めつけられている地球の現状。胸が締め付けられるような思いがした。

あの番組を見た人はどのくらいいるんだろう。だいたい、どうして正月番組はこんなにもお笑いが多いのだろう。笑っていられる時期はとうに過ぎている。新しい年になる、ということは、地球に残された時間がまた少なくなった、ということなのに。

昨年は、「そんなの関係ない」と連呼する芸人が非常にもてはやされた。子ども達は、そのフレーズを耳にするだけで大喜びし、自分もまねしてみせる。しかし、それは、自分に都合の悪いことは見たくない、聞きたくない、という今の人たちの気持ちをピタッと表現したギャグであったからこそ受け入れられたのではないだろうか。

テレビ番組は言うまでもなく時代を反映する。昨今のお笑いブームは、世相が暗いことを逆に反映しているのだと私は思っている。ニュースを見れば、政治も社会も気持ちが暗くなるような話題ばかり。子ども達は希望を失い、学校も荒れている。心身ともに疲労して家へ帰ってくれば、あとは何も考えずに笑っていられるバラエティ番組でも見てリラックスしたいと思うだろう。

でもその考えはとても危険だ。温暖化の影響は、随分前から知識としては知っていた。でも実感が沸かなかったというのが正直なところだ。しかし、温暖化問題は、もはや人ごとではないことを昨日の番組でも思い知らされた。

藤子F不二雄さんのSF漫画に、「予言者」という短編がある。よく当たる、といわれている予言者が、恐ろしく怯えているので、人々はどんな未来が分かったのか尋ねるのだが、予言者が恐ろしがっていたのは恐ろしい未来が見えたからではなく、新聞や報道で人類の未来はとうに分かっているのに、何も気にせず、自分のこととしてとらえられない人々のありようだった、という話だ。

未来は変えられないのだろうか。もし、神が存在するとしたら、今私たちは最大の宿題を与えられてるのだとおもう。みんなで力を合わせれば、この危機を乗り越えることができると信じたい。一人から、でも、一人ではできない。この危機に立ち向かうことを通して、ばらばらになってしまっている人々の気持ちがもう一度一つになることを願う。

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ギンギラクリスマス

クリスマスも終わって、今年も残すところあと2日。

うちもやっとクリスマスツリーを片付けおえたところだ。

それでも我が家はツリーと、子どもと一緒につくったリースがいくつかなので片付けといってもたいしたことないが、家の周りじゅうをイルミネーションで飾ってしまっているお宅はさぞかし大変だろうと思う。

ここ近年、この季節になるとお庭じゅうをギンギラギンにしているお宅が増えた。我が家のご近所でも流行中のようだ。

ちょっぴりアクセントとして楽しむ程度であればほほえましいが、どうしてそこまでするんだろう、という家もかなりある。町の一角が、どの家もギラギラピカピカしていて、舞浜まで行かなくてもエレクトリカルパレードみたいになってしまっているところもある。

10年前くらいに、初めてギンギラのお宅を発見(まさに発見!)したときには本当に驚いて、わざわざ車に乗って友達にも見せたりしていた。でも、今はけっこう普通の光景だ。当時は珍しくて、きれいだな~、と見る方もはしゃいでいたが、でもそれって本当に美しいんだろうか、って最近は思う。

よそのお宅の懐具合をとやかく言って申し訳ないが、かなりの電気代がかかっている、とテレビで言っていた。屋外の電気のために、家の中では極力電気を使わずに薄暗い中で生活している人もいると聞いている。

近所でエレクトリカルパレード状態にしてしまっているところは、はじめは少しだったのにだんだんエスカレートして、近所どうしで無言で張り合っていたり、または反対に自分のところだけやめづらい状況になってしまっているところもあるらしい。

まあ、そこまでは個人の自由なのでほうっておいてくれ、といわれてしまえばそれまでだが、今回どうしても書きたかったのは、その電飾を見るたびに、やっぱり地球の温暖化って、頭では分かっているけど、個人として何かしなくちゃいけない、というレベルではないのかな、というところにすごい危機感を感じるからだ。

もう、お金があるからどれだけ電気を使ってもいい、という時代ではないのだ。東京タワーだって節電してライトアップを制限している。エコの問題に直面したとき、物質的な豊かさを象徴する電飾のきらびやかさは美しいと素直に感じられないものになってしまった。

何年か前、チェコ人の友人が、クリスマスは国に帰りたい、国のクリスマスはそれは美しい、と話していた。どんなクリスマスか聞いたら、各家庭が窓辺にガラス製のオーナメントなどを飾り、ろうそくの火を灯す、といっていた。想像しただけでこころにも日がともるような、あたたかいクリスマスだ。

クリスマスではないが、日を近くして100万人のキャンドル・ナイトという素敵な取り組みもある。うちは子どもが小さく、電気を消す、といったら怖がったのでまだやったことはないが、ろうそくの炎を囲んで世界平和を思い、家族の絆も確かめ合えるようなこのイベントがもっともっと広がっていくといいな、と思っている。

うちの子は私の意見にいつも同調しているので、私がギンギラの家を見て、「ちょっとあれはやり過ぎだよね~」というと「そうだよね~。やり過ぎやり過ぎ。」といっている。でもやっぱり、「ねーねー、やりすぎのうちちょっと見たいな~。」というのが本音らしく、それはそれで子どもらしくてまあ、いいか。と文句をいいながらやり過ぎの家を見に行ったりした今年のクリスマスだった。

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本屋における本の配置

以前、別の記事で女性コミックの性描写についてちょっと書いた。

そして、気になることとして、子どもが簡単に手が届くところに配置されていることを書いたのだが、先日言った本屋もそうだった。

昔はどぎつい性描写は男性コミックにしか見られなかったが、今では女性の成人向けのコミックもかなりきつい描かれ方をしているものがたくさんある。

それが、男性コミックについては比較的少年向けのものと成人向けのものが分けて置かれているのだが、女性コミックは必ずしもそうではなく、子どもでも知らなければ思わず手にとって開いてしまうような置き方がされているのだ。

私がその本屋で雑誌などを見ていたら、目の前に小学校高学年くらいの女の子がいた。

いかにも真面目そうな子だが、コミックを手にとって、顔は真っ赤に上気し、ちょっと笑っている。

なんか様子が変だと思ったら偶然手にしたのだろうか、成人女性のコミックを読んでいた。

それから私が店内の別のコーナーを一回りし、そこへもどったのだが、その少女はまだ同じような本を見ていた。今度は自分で選んで見ていたのかもしれない。

さりげなく後ろに廻って彼女が読んでいた物をちらりと見たら、かなり激しいセックスシーンだった。

声を掛けようと思ったけれども、恥ずかしくて罪悪感を感じるようになったらかわいそうだと思い、その場はだまっていた。

その代わり、店員の所へ行って、「女性向けのコミックの配置はなんとかならないのか。」と言ってみた。

それを読んでいた少女が、ちょうど自分の姪と同じくらいの年齢だったので余計に人ごとに思えなかった。

その子は、見るからに真面目でおとなしそうな子だ。

真っ赤になった顔を見れば、どれほど興奮していたか、あるいはショックを受けていたかを想像することができる。

親や学校で正しい性教育を受ける前に、あんな形で性についての歪んだ理解をしてしまったら、性についての認識が歪むばかりか、大人、ひどいときには両親への嫌悪感を生む危険もある。

「もしも自分の子、自分の姪がその本屋へ行きたいと言ったら、私はきっと行くな、と言うでしょう。」そんな事も話した。

その時対応してくれた職員は、「店長に伝えます。」といったが、後日再び行ったとき、なにも変わっていなかったので本当にがっかりした。

制作者も販売者もまだまだ、売れることのみ考えて、子ども達の健全な育成を重要課題としてとらえてくれないところが多い。

街に生まれ、街に育つ子どもが多い今、その住環境を私たちやお店を含めた大人達全体でよくしてゆけるような社会になってほしいと思う。

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水だけで落ちる

最近スーパーに行くと、よく「水だけで落ちる」スポンジなどを目にする。

何となくすっきりしない気がして使っていなかったのだが、

試しに一つ買ってみた。

そして早速夕食の洗い物に使ってみたのだが、なるほどこれはよく落ちる。

しかし物によっては、油が強い物などこれだけではすきっとしない感じだが、

それでいけないのか、といわれればそんなことはない。

それを使ってみて、今までなんでもかんでも洗剤に頼りすぎていたなと改めて思った。

使い方として私がやっているのは、

米のとぎ汁を捨てずにおけに入れて置いて、食後軽く下洗いしたらとぎ汁の中に入れておく。

とぎ汁やパスタのゆで汁などは油を浮かす働きがあるそうだ。

そうして後は流水の下でそのスポンジで拭いなから洗うだけ。

もともと環境に良さそうだから買ってみたわけで、実際よいのだが、使ってみて実感したことは、かなり早く炊事が終わることだ。

今まで洗剤→すすぎの2ステップだったのが1ステップで終了だからあっという間だ。

そしてその後は家族で団らんする時間に当てられる。

食後の炊事というのはかったるいものだが、すいすい終わるようになってたかがスポンジだが久々にいい物を買ったと思った。

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祖母の思い出

勤務先の学校で、ごみ拾いの行事があった。

他校と合同で近隣の公園や道路を歩き、ごみを拾い集めるのだ。

それにしても千葉はごみが多い。

空き缶やお菓子の紙、ペットボトル等々・・・・・。

私は常々ごみのポイ捨てほど無責任な行動はないと思っている。

自分の手を離れたごみがその後どう環境、景観に影響するのか、それを掃除し、拾い集める人は誰なのか、全く考え無しの行動である。

これだけごみが多いと、日本人のモラルの低下にがっくりくる。

ごみ拾いは暑い暑い初夏に行われた。

苦労して集めた子どもは今後気軽にゴミ捨てをしたりしないだろう。

しかし、大人が必ずしも子どもの手本にならない例を目の当たりにさせてしまうのは残念だ。

やっぱり健全な心の成長のためには、先を行く大人が尊敬に値し、子どもが魅力的な大人像を描くことが大切だと思う。

これでは大人が子どもに負けてしまう。

子どもは親に、「今日、みんなで道路のごみを拾ったよ。随分ごみを捨てる大人がいるんだなあ、悪いよね。」と聞かせてやるといい。

そして大人は、自分は子どもに対して恥ずかしくないことをしていないか、自分の行動を省みた方がいい。

去年12月、母方の祖母が他界した。

正直私はこの祖母とは折り合いが悪く、なくなるまで関係は悪いままだった。

仏様にこういうのは気が引けるが、今でもあまり好きとは言えない。

しかし、一つ思い出すことがある。

幼い私が祖母と歩いていたとき、私は考え無しにジュースの缶を森に投げた。

祖母は強く怒り、私はその缶を探しに森へはいることになった。

子どもだった私はなぜそこまで厳しくされるのかわからなかった。

けれども今は、そのことだけは祖母に感謝している。

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がんこわい

我が家の家系はがんにならない、と私はずっと思っていた。

実際、とくに母方の親戚は長寿の人が多く、ガンで亡くなった人もあまりいなかった。

ところが、である。

ここ2,3年で、ばたばたとガンになるひとが増えてきた。

12月に他界した祖母もそれが直接の原因ではないがガンを持っていた。

今、祖母の弟が入院している。

叔父もガンを患い、先日手術した所だ。

ガンが死亡率のNO.1であると言うことを実感している今日この頃だ。

世界一の長寿国といわれたのは戦時中を生き抜いたたくましい先輩達のお陰、

今の私たちは生まれたときから化学物質付けでそれほど長生きしないのではないか、と予言をしたひとが昔いた。

実際その通りなのではないか。

ガンに倒れる親戚の姿は、そのまま未来の自分の、そして子どもの姿かもしれないのだ。

私たちは、化学物質について無頓着すぎる。

快適で便利な生活を享受しながら化学調味料や電磁波のリスクからは目を背けようとしている。

自分がいいと思っている物でも実は体に悪い、というものはいくらでもある。

お菓子のお菓子やレトルトの化学調味料、合成着色料は言うに及ばず、子どもが喜ぶウインナーは発色剤、苺ヨーグルトだってプレーンなものに比べれば危ない。できあいのお総菜なら大丈夫かとパックの裏を見れば、添加物の名前がたくさん書いてある。

忙しい毎日、レトルトに頼りたいのはやまやま、料理も下手で買った方が何倍もおいしいのも承知の上だが、なんとか自分の手で作れるように腕を磨かなくては、と最近必死でキッチンに立っている。

素朴な味付けだって案外いけるものだ。

食品のほかにもシャンプー、歯磨き粉、オモチャだって口に入れれば安全とは言えない。

商品を買うときに、原材料がなんなのか、常にチェックする習慣をつけなくてはいけない。

「そんなことを言ったら、何にも食べられないよ。死ぬときは死ぬ。」と豪語してそういう話に耳を傾けない人をよく見かけるが、つらいのはその人だけじゃない。

介護をする家族、残される家族だって同じくらいつらいのだ。そこを考えてほしい。

先日、娘の保育園に行って、担任の先生と話をした。

私はどうしても娘のおやつにスナック菓子を持たせるのは抵抗がある、と話したのだが、園としても人数的に多いため手作りおやつなどはだせないようだった。

後日、たまたま仕事が早く終わり、ちょうどおやつの時間に迎えに行った。

ほかの子がどんなおやつを食べているのかきになり見ていたのだが、食べてるおやつを見て驚いた。

僅か2歳児のおやつがポテトチップだったり、袋のお菓子を食べきれないほど持たされている子もいた。

おやつはまだ胃の小さい子どもが食事で取りきれない栄養分を補給するための物だ。

栄養補給できないばかりか、食品添加物の危険、塩分取りすぎの危険、肥満の危険を子どもに追わせるようなおやつを毎日もたせるとは・・・・。

誰でも子どもを愛している。

愛しているなら、考えてほしい。

知らないなら、知ってほしい。

一番の責任はもちろん親だが、核家族化が進んでいる今の時代、ただあずかるだけでなく、そうした子育ての指針となるようなセンター的役割を保育園も持ってくれたら、と願わないわけではない。

テレビではガン保険のCMが毎日にぎやかだが、保険と同時に、予防の事も真剣に考えた方がいい。

ガンで苦しむ親戚の姿を見て、そんな姿を子どもに見せたくない、また、子どものそんな姿を見たくない、と強く思う。

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我が子の環境

いつもは子供が育つ環境について、もっとこうすればいいのに、こうしたほうがいい、

などと言うことを書いているが、もっと根本的なところで、自分自身がどうしていいか

わからなく、長い時間考えたり悩んだりすることがある。

それは、ほかでもない、我が子が育つ環境だ。

何度か書いているが、私は千葉で生まれ育ったが子供が産まれてから離婚をし、

新しい職に就いて長野へ越してきた。

もちろん仕事上の理由もあったが、長野のような自然を近くに感じられる環境で

子供を育てたいと思ったのも大きな理由だ。

今住んでいるところは、360度山々に囲まれ、毎日自然の移り変わりを感じることができる。千葉にいた頃は、休日遠出をしたときにしか見られなかった贅沢な景色を毎日見ながら生活することができるのだ。

自然の美しさもあるが、何より大事だと思ったのは子供達の純朴さだ。

千葉で学校に勤務していた頃は、時の移り変わりとともに子供達の様子、遊び方、

考え方などがどんどん変わっていくのを感じていた。

豊かになった生活と引き替えに、なんか大事な物を失っていく様子・・。

それを見ていてもどうすることもできない無力さも感じていていた。

また、転勤、異動などを通じて、都会から遠くなればなるほど、子供が子供らしくなることも実感していた。

子供にとって学校の環境、友だちの環境は非常に重要だ。

だから私は長野でのびのび育てることが娘にとっていいことだと考えてここへきたのだ。

また、今の私の仕事は、ちょっと給料は少ないが、私にとってはずっとしたかった仕事だ。

親が、頑張れば夢を叶えることができた、と言う姿も娘に見せたかった。

したい仕事を一生懸命にしている姿を見せることが将来彼女がしたいことを見つけたときに助けになると思っていた。

けれども、この1年半、ここで暮らして、子供のためにしてきたことが実は子供のために

なっていないんじゃないか、という想いが次第に大きくなってきた。

いそがし過ぎるのである。

子供に会えるのは夜7時に保育園にお迎えに行ったとき。2時間後には就寝だ。

ゆっくり遊んであげる時間はない。

土曜日も預けて仕事をしていることがほとんどだ。

せっかく信州へきて、足を伸ばせばいくらでも

美しい山々があるというのに、

ほとんど行ったことがない。

普段元気なときはいいが、病気などで保育園から電話がかかってきても、

すぐに引き取りにいける人がいない。

そんなときは実家から私の両親が車を飛ばしてきてくれ、頭が上がらないほど感謝しているが、それでも両親が到着するまではいつも不安で、私がそうなのだから娘はもっとつらい想いをしていただろうと想像する。

また、給料面でもかなり心配だ。

好きなこと=高収入を得られること、と言う人は幸せな人で、

私の場合はそうではない。

毎月なんとか無事に暮らせるが、娘の将来のために貯金をしたり、

もし娘になにかの才能を発見したとしても、それを習わせたりする余裕はない。

第一、ここには習い事をさせたくてもそういう場所が自体が少ない。

世の中お金ではない、ときれい事を言いたいところだけど、

実際に子供を育ててみると、子供には最低限のことはしてあげられるように

なりたいとやはり思う。

いうまでもなく、子供にとって一番身近で大切な環境は家庭だ。

家の場合は母子家庭なので私が彼女の家族だ。

寂しい想いをさせていいわけがないし、金銭的な理由の為にしたいことをさせてもらえないのも彼女にとっての不幸になりうる。

したいことをする、というのは私の自己満足であり、子供にしてみれば少しでも長い時間ママといられるほうが幸せではないか、

そんなことを常に考えるようになり、このたび退職して千葉に戻ることにした。

私が子供に与えてあげたいと思った自然や学校の環境より、家庭環境のほうが優先順位が高いと判断したからである。

これで私は定職を失い、一度辞めた教職に就くために非常勤講師から出直す

ことになった。

今度住むところは昔住んでいた所に近いところなので、兄弟や友だちも多く、なにかあったときに助けてくれるはずだ。

今の決断が正しかったかどうかは娘が大きくなった頃に答えがでるだろう。

とりあえず4月からはこの1年半を埋めるくらい、子供とちゃんとあそんだり話したりしたいと思う。

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プレーパーク

前回の記事に書いたことと重複するが、子供は親の介入しない世界で思い切り遊ぶこともとても大切だ。

私が以前住んでいた家は、目の前に公園があった。

公園と言っても、滑り台とブランコ、それに鉄棒があるだけのちいさな児童遊園だ。

私も子供の頃はさんざんあそび、大きくなっても日曜などは一日中子供の声が絶えず、ずいぶん心を和ませてもらったものだ。

それが、いつぐらいからだろうか。

その声の中に大人の声が混ざるようになった。

窓からのぞくと、子供をつれて親も公園にやってきている。親同士はベンチに座ってずっとしゃべっている。しゃべっているだけならいいのだが、遊び方について子供に一から十まで口出ししているのである。(暇だな~と思うけど、それは今は置いといて・・)

「こら、○○ちゃん!こんどは××ちゃんが遊ぶ順番でしょ!ちょっとまってなさい」

「▲▲ちゃん!滑り台はそっちからのぼるんじゃないでしょ!ほらほら、ちゃんと捕まってないと落ちたらどうするの!?」

「あら、あら、けんか?どっちが悪いの?お兄ちゃんなんだからほら、すぐにあやまりなさい」

「まあまあ、袖口まで真っ黒じゃない!お母さん洗濯したばかりなのに」

などなどなどなど・・・・ これは、聞いてるだけの私もかなり苦痛なのだから、遊んでいる子供達は遊んだ気もしないだろう。かわいそうに。

公園と言えばもうひとつ、子供の遊び場としての公園が各地に整備されていくのは非常にいいことだが、整備されすぎているのも気になっていた。

かわいらしい遊具は言うまでもなく、花壇や植木もきれいに、芸術的に、刈り込まれている。

きれいな形をした木々は、その時点でもう自然ではない。緑は多いが規制も多く、子供の遊び方は自ずと限られてくる。

そんななか、最近、「プレーパーク」なるものをつくろう、という運動が各地で広まっていることを知った。

「プレーパーク」は、文字通り公園なのだが、そこには公園らしい遊具は何もない。そこでは何をしても自由だそうだ。どろんこになる子、穴を掘りまくる子、木に登る子、ただ走り回る子・・・ルールは何もない。

安全のために大人もいるそうだが、何を指図するわけでもなく、気づきや成長をただ見守る存在だと言うことだ。

さっそく自分の家の近くにそのプレーパークがないか調べてみた。

意外に近くにもプレーパークが、またはそれを作ろうと活動している団体があり、これは是非言ってみなくては、と思った。

本来ならば本当の自然の中で遊ぶのが一番いいにきまっているが、それも難しい昨今において、そのような所をつくっていこうという動きがあちこちで起こっていると言うことは嬉しいことだと思う。

ご自宅の近くにプレーパークがあるか調べたい方はこちらをどうぞ。

日本冒険遊び場作り協会

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お寿司なしで生きられる?

日本人はお寿司が大好き。たくさん並んでいると、どれにするか迷ってしまう。

一番好きなのは?大トロ?やっぱりトロは人気者だ。

でも、その大トロは食べてはいけない。マグロには水銀メチルが多くふくまれていのだ。

何年か前に、魚に含まれる水銀についての記事が新聞やテレビを賑わわせた。

そのとき話題になったのは金目鯛やメカジキだったが、政府は日本人がもっとも好むマグロについてはほとんど取り上げなかった。

実はマグロの水銀含有量は金目鯛などよりも多いのだ。

政府は国民が大好きなマグロについては真実を語らず、水銀含有量をHP上で参照できるようにしたことで国民に知らせる義務は果たした、と言っているのだ。ずるい。

水銀といえば、あの水俣病を引き起こしたことで有名。

水銀が海や川に流れ出し、それを小さい魚が食べる、それを中くらいの魚が食べる、それをまた大きい魚が食べる。

食べられる度に水銀はより大きい魚の体内に蓄積されていく。だから体の大きい魚ほど危険というわけだ。

体の大きい魚を好む日本人は、水銀の体内濃度がすでに世界一なのである。

それだけではない。

恐ろしいことに、母の体内にある水銀は、出産によって子供の体内へと移動する。

日本人の子供は産まれながらにして体内に水銀をもっているのだ。

政府はお茶を濁して「食べないようにしましょう」くらいのいい方をしたが、ヨーロッパではきっぱり「食べてはいけない魚」のリストにはいっていて、政府も国民に注意を呼びかけている。

政府が一番大好きなのは生産者の利益で、国民の命はなんとも思っていないのか。

いつもながら対応のまずさに腹が立つ。

幸い、私は妊娠前からずっとオーストラリアにいたため、寿司や刺身はほとんど口にしなかった。

でも日本にいたら、私も確実に食べていたはず。

今私は大型の魚に注意をし、寿司、刺身、シーチキンもあまり食べないようにしている。

でも、魚が大好きな父は、「そんなことを言っては何も食べられない。第一、好きな物を食べられないくらいなら早死にしてもいい」くらいのことをいっている。

このように事態を軽視しているひとはかなり多いのではないかと思うが、それは国がその辺の真実をきっぱり言ってくれないせいだと思う。

できれば隠していたいんだけど、いよいよ言わなくてはいけなくなってしまったから、国民を動揺させないように、いや、国民の非難を浴びないように、オブラートに包んで言っている。

そんなことばかりしているからなにを言われてもそのまま信じる気にはとてもなれない。

安心して暮らせる世の中にはなかなかならないものである。

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