祖母の思い出

勤務先の学校で、ごみ拾いの行事があった。

他校と合同で近隣の公園や道路を歩き、ごみを拾い集めるのだ。

それにしても千葉はごみが多い。

空き缶やお菓子の紙、ペットボトル等々・・・・・。

私は常々ごみのポイ捨てほど無責任な行動はないと思っている。

自分の手を離れたごみがその後どう環境、景観に影響するのか、それを掃除し、拾い集める人は誰なのか、全く考え無しの行動である。

これだけごみが多いと、日本人のモラルの低下にがっくりくる。

ごみ拾いは暑い暑い初夏に行われた。

苦労して集めた子どもは今後気軽にゴミ捨てをしたりしないだろう。

しかし、大人が必ずしも子どもの手本にならない例を目の当たりにさせてしまうのは残念だ。

やっぱり健全な心の成長のためには、先を行く大人が尊敬に値し、子どもが魅力的な大人像を描くことが大切だと思う。

これでは大人が子どもに負けてしまう。

子どもは親に、「今日、みんなで道路のごみを拾ったよ。随分ごみを捨てる大人がいるんだなあ、悪いよね。」と聞かせてやるといい。

そして大人は、自分は子どもに対して恥ずかしくないことをしていないか、自分の行動を省みた方がいい。

去年12月、母方の祖母が他界した。

正直私はこの祖母とは折り合いが悪く、なくなるまで関係は悪いままだった。

仏様にこういうのは気が引けるが、今でもあまり好きとは言えない。

しかし、一つ思い出すことがある。

幼い私が祖母と歩いていたとき、私は考え無しにジュースの缶を森に投げた。

祖母は強く怒り、私はその缶を探しに森へはいることになった。

子どもだった私はなぜそこまで厳しくされるのかわからなかった。

けれども今は、そのことだけは祖母に感謝している。

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転園申請

職場を移って、生活環境は良くなったが慣れない仕事で疲れてしまって最近非常よく寝ていた。だから久々の更新。

今日、千葉県民の日、ということで仕事がなかったので市役所に行った。保育園の転園願いを出すために。

娘が今の保育園に通って2ヶ月になる。当初環境が変わり行きたくない、といっていた娘もいまではすっかり慣れてぐずらなくなった。それでも転園させたい、というのには理由がある。

もっとも大きな理由は規模が大きすぎることだ。定員はなんと300人。クラスの規模も小学校並だ。担任は4人いるから一人が担当する子供の数は計算上はそんなに多くないが、数が合っていればいいというものではない。子供に落ち着きがなくなるし、生活全般にゆとりがない様を想像するのは簡単だ。

夕方迎えにいくと「だれのお母さんですか」と未だに聞かれることがある。聞かれると言うことは、私も保育者の顔を知らない。知らない人に預けているような不安がある。ただ引き渡すだけで、今日はこんなことがありましたよ、なんて言う話も一切無し。

何時に迎えに言ってもみんなでテレビを見ている。テレビづけ、ということは、友だち同士の関係を築けない、ということだ。

保育園で毎日だすおやつは市販のものだ。夕方用のおやつはスナック菓子をもってこい、という。幼児にスナック菓子を毎日食べさせるの?

熱があるから迎えに行けば、医務室もなく、子供がバタバタあそんでいるところに布団を出して寝かされていた。

家に帰ってきたときに子供の服は殆ど汚れていない。洗濯のことを考えればありがたいが、外遊びを十分にしていないのでは?

前の保育園ではたくさんたくさん写真を撮ってくれたが、今は全然なし。

風邪を引いて、1週間休んでも担任から何の連絡もこない。

こうかくと、文句ばっかり言っていると思われるが、文句ではない。実際、保育者の方は一生懸命、精一杯やってくださっていると思うのだ。

ただ、これだけ人数が多いと、きめ細かな保育をしていくのは物理的に無理だ、と言いたいのだ。

長野では、小規模な保育園の中で、本当にアットホームな雰囲気の中で育ててもらっていた。子供だけでなく、私の事もよく理解していただいていて、心強かった。

本来ならば何度か下見をして納得のいく保育園を選びたい所だったが、長野から直接申し込んだこともあり、絶対に入る必要性があったため、定員のおおい保育園にしてしまったのだ。

実は5月頃に、市に転園希望を出したのだが、理由にあたらない、と言うことで却下された。転園は親の転勤などで通園が困難になったときしか認められない、という。

しかし、特に私立保育園は保育の方針やカリキュラムに大きな差があるし、この年齢のこどもにとって、どこで育つかは一生を左右するくらいの大きな問題だと思うのだ。そのへんをもっと重くとらえてそういう市民の申し出に対して受け入れていく姿勢をもってもいいのではないか、とそんなことを窓口で訴えてきた。

だめもとではあったが、役所というところは、そういう申請については、一度は断るものだということもどこかで聞いたことがある。それで引き下がるならそんなにたいした要求ではないということで、それきりで終わってしまうと。だから今度は申請書のほかに、状況説明書という文書も書いて出すことにした。

子供もまあまあ慣れてきたし、そこまでしなくていいかな、とちょっと思いかけたが、やっぱり出そうと思った出来事があった。市役所の入り口で、園長に会ったのである。園長は、私に気づきもせず、目の前を通り過ぎていった。長野の保育園ではほかでもない園長先生が娘を非常にかわいがってくれ、最後の日にはもうお別れだからだっこさせて、と言ってくださった。そんなことを思い出してやっぱりここは辞めよう、と思ったのだ。

今度希望しているのは、森の中にある小さな保育園だ。この間下見をして、献立表も見せてもらった。おやつも全て手作りだった。

申請が通らなかったら、4月に再度挑戦するつもりだ。

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自分を語るのは難しい?①

NHK「課外授業 ようこそ先輩」の、石田衣良さんの回をみた。

石田さんは直木賞作家だ。彼は子供達に、自分の胸の内を文章にして友だちの前でそれを読ませる、という授業を行った。

しかし、そう簡単に子供達が自分のことを文章にした訳ではない。彼はまず、子供達の机を教室の外に出し、いすを丸く並べて、子供達と同じ目線で話し始めた。

「この中で、自分の夢について聞かれるのが大嫌いな人!」彼はいった。

何人かが手を挙げた。理由は、夢について話すとたいてい怒られるからだそうだ。「じゃ、いまうんとがんばらなくちゃ」とか、「そんなことじゃ○○になんかなれないよ」といったところだろうか。確かに、私たちは、子供達に何かをもっと頑張って欲しいときに、夢について聞いてみる、と言うことを無意識にしているかもしれない、とちょっと反省してしまった。

そして石田氏は、子供達に、それぞれの心のなかのもやもやしたものについて書かせ、そのあと一人一人と話した。それと同時に、ご自身が何年も書いてきた日記を子供達に見せ、青春時代の自己の心の葛藤をうち明け、また、自分と向き合うことの大事さについて説いた。

そうして子供達は実にいろいろな作文を書き上げたのだが、それらの作文はたいていはクラスの子を驚かせた。「○○ちゃんがそんなことを考えていたなんて全然知らなかった」からである。

たとえば、いつも友だちと楽しく遊んだりしている子が、「自分が友だちにどう思われているのかを考えると心配で仕方がない」などと書いたりしている。

今の小学生は随分人に気を遣って、人間関係のストレスを抱えながら生きているものだと改めて思った。

どの子も一様に、「自分」を前面に押し出すことに消極的なのはなぜだろう。

前記事に登場した友人の子供は、2年近くオーストラリアの小学校へ通い、日本の学校へ戻ってきた。

オーストラリアでは自己主張をすることはいいこと、自分の長所に自信を持つことはすばらしいと教えられてきたのに、日本では全くそれが通用せず、一時不登校にまでなってしまったときいて、非常に胸が痛んだ。

自己表現をする事に慣れていないだけでなく、自己表現をする人を受け入れられない、そういう人に対してどう対応していいのかわからないという子供が多いのだろう。

幼児はだれでも自己主張が激しいのにそのうちそれができなくなるのは、学校の教育にも問題があるのだと思う。

授業は殆どが机に座って一方的に聞くもので、自己表現する訓練ができていない。

最近は国語の教科書でも表現に重点を置いたものも登場しているが、なんか型にはまっていて、それでは発想の広がりに欠けてしまう。

教科書に沿って単元として「表現」をあつかうのでは、やっぱり子供も構えて型どおりの表現しかできない。もっと日常的、根本的に何かを変えるために日常的にできることがもっとあると思う。

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少子化と外国人児童②

昨日の記事で、外国人児童の日本語の問題について書いた。

しかしそれに対して学校は何やってんのかな、と思う。

何を、というのは、簡単にいってしまえば、「そのための予算をつけろ」ということだ。

私が以前勤務した小学校は、外国人児童が多く、そのため取り出しの日本語教室も行われていた。

その教室には大ベテランの先生がおられたのだが日本語については教えたことが無かった。私はクラス担任だったのでその教室には関わりがなかったが、日本語教育について勉強していたので、図々しいとは思いながらもその先生に思うところを話してみた。

そしたら先生は、私のような若い者の意見も丁寧に聞いてくれ、日本語教育について勉強し始めたのである。日本語教授法のイロハから、高い教材費を払ってご自分で勉強されていた。日本語教育関係のセミナーなどがあると、私と一緒によくいったものだった。

しかし思うのである。どうして学校として、しっかり受け入れのための準備をしないのか。小学校の英語教育の為に、NOVAやECCの先生に委託をしている市町村もあると聞く。どうして学校現場に日本語のプロをもっと入れないのだろうか。

プロの先生を入れずとも、今いる先生にお願いしようと思っているならもっと研修会を開くなどすればいいのである。子供達のため、と熱心に学ぶその先生を尊敬しながらも、先生が全部実費で学ばれているのはおかしいと思った。その先生が異動したり定年されたりしたらまた次の担当の人は自費で勉強しなくてはならないのだろうか。

もうひとつ気に入らないことがある。

学校で面倒を見きれない外国人児童の日本語指導を、市のボランティア団体にお願いする、ということがあったのである。

総合学習というものを始めて以来、学校はボランティアさんが大好きだ。

それは近所のおじいさん、おばあさんだったり、地元の職人さんだったり、スポーツ選手だったり、様々だ。子供達に昔の遊びを教えたり、貴重な体験談を聞かせていただいたり、ボラさんが学校へ来ることでご近所のつながりが深まり、異世代との交流が深まるなど、その効果は否定しない。しかし、そこで日本語教育もボラさんにお願いすればいいや、などと思われては困るのである。

なぜかといえば、おばあさんに昔の話をきいてもきかなくても実際困ることはないが、日本語を教えてもらうことは必要なことだからだ。

私は、そのころ放課後はボラの日本語教室で日本語を教えていて、そんな話がある学校からきたとき、かわいそうだけど断るべき、または条件付きでやってあげるべきだという意見を言った。条件、というのは、今は急な話なのでできなくても、今後は制度を整えるべく働きかけていく、という約束をもらうことだった。

その子は必要なら、放課後私たちのボランティア教室へくればいいと思った。

その時は結局、ボラさんの一人が、「そうはいってもね・・・」といって学校へ出向いてあげていた。彼女は間違っていない。彼女の言うとおり、そうはいっても、今ここで困っている子を見捨てられない、だいたい、そういう気持ちのひとがボラをやっているのだから。

学校で困っている児童を、放課後学生達のボランティアグループが日本語、教科の両方を教えてあげている所もある。愛知県などが有名だ。

だれもやってくれないから、ボラでやってやろう、という人々が生まれるわけで、本来してあげるべきところがそれを利用してしまうのはどうかと思う。

国も、県も、予算を削るべき所を間違えている。

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少子化と外国人児童①

いまさら言うまでもないが、日本は少子化が深刻な問題になりつつある。

少子化は国の経済力の低下につながるため、それを埋めるべくこれから外国人が労働の担い手としてますます増えていくだろう。

私は今日本語学校で日本語を教えているが、うちの学校にいる外国人はこれから就職や大学を目指す人がほとんどで、きちんと学費を払って学校へきている。

しかし本当に日本語を必要としてるのは彼らばかりではない。

出稼ぎをするために日本へきた労働者、日本の農村地帯に嫁にきた奥さん、

そしてその子供達・・・。

そういう人たちの日本語支援を主にボランティアが担っているわけだが、次世代の労働力として頼りにしている割にはそうした活動を助成するような動きも無く、ボランティアのご厚意に甘えている自治体が多いのではないかと思う。

もっとかわいそうなのは子供達だ。

外国人の大人なら、かれらに必要なのはサバイバルジャパニーズだ。

社会人は仕事で使う日本語、主婦は日常会話。

けれども子供が日本語を習う場合にはそれだけでなく、その日本語を使って国算理社などの教科の勉強をしなくてはならないのだ。

ここでよほどうまくやらないと友だち関係にまで影響を及ぼす。不登校、あるいは保健室登校になってしまった子を何人も見た。

そのように大切な時期であるのにもかかわらず、きちんと日本語を学校で教えてもらっている外国人児童はどれくらいいるのだろうか。

概して、日本語教師の専門性というのは全然社会で認められていない。

日本語だけに、日本人なら誰でも教えられるだろう、と思われている。

(女なら誰でも家庭科を教えられるだろうと思われているのと同じ)

しかし、実際には、全然日本語教育について知らない人が日本語を教えることは無理だ。

試しに想像してほしい。あいうえおも覚えてきていない人にどうやって日本語を教えるか。

外国人児童が多い小中学校では、取り出しの日本語授業を行っているところもあるが、日本語教育について勉強したことがない先生が指導に当たっていることも多い。

しかし、話せることと教えられることとは違うのだ。

日本語教育についてよく知らない人が勘違いしているのは、主に次の2点である。

①日本人なら誰でも日本語を教えられる。

②子供はすぐに言葉を覚えられるから、ちょっと話せるようになったらクラス授業に戻しても      問題はない。

私たちは、外国人がちょっと日本語で挨拶でもしようものなら、簡単に感心し、「日本語がお上手ですね。」なんて言う。

しかし、自分が英語を勉強したときのことを思い出して欲しい。

「Hello,Nice to meet you」 なんていう挨拶は一番先に勉強することだから誰でもできる。

ちょっと勉強すれば買い物、旅行なんて言うこともそんなにストレス無くできるようになるはずだ。

でも、英語を使って、数学の勉強が、理科の勉強ができるだろうか。

彼らは日本語を使って中学受験、高校受験をしなければならないのである。

日本にきて間もなければ、外国人を受け入れている各学校の外国人枠、帰国子女枠で受験することもできるが、日本へきて年数が立ってしまうと、日本語力が未熟なのにも関わらず一般の学生と一緒に受験しなければならない。

日本では、外国人児童が日常的な会話を覚え、友だちもできはじめると、たいていもう日本語力は十分と考え、取り出し授業をそこでやめてしまう。

結果、クラスの勉強についていけず、学校が嫌いになってしまう子供や、かなり遠く離れていても同じ国の子供達が通う外国人学校に転校してしまう子供が多いのだ。

私がオーストラリアに留学したとき、そこで知り合った友人は子連れで永住を目指してきていたのだが、二人のお子さんは現地の小学校でやはり英語の取り出し授業を受けていた。

そこでの取り出しは初めの3ヶ月、とかではなく、私の知る限りではずっと続いていたと思う。そこの先生方は、日常会話ができるようになってからも彼らの困難が続くことをよくわかっていたからだ。

オーストラリアは移民の国、と言われるだけあって、街を歩いていても本当にいろんな肌の色、目の色のひとがいる。そんなオーストラリアはさすがに外国人に対する英語教育の研究は進んでいて、本屋へいっても外国人向けの英語のテキストは本当に充実している。教育現場でも、外国人の受け入れ、対応はかなり充実しているといっていい。

それに比べて日本は外国人児童に対する対応はまだまだだと思う。取り出し授業が行われるところはそれでもまだよく、そういう児童がただ教室の中でお客さん状態になっていることもある。

これから日本にはますます外国人が入ってくる。そのまえに、学校教育の場をなんとか改善して欲しい。学校教育の場に、日本語教育のプロを入れて欲しい。

大人ならともかく、学校生活はその子の一生を左右してしまうほど重要なのだから。

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子供に障害があったら

ずっと考えていたのだが、なかなか書けなかったことがある。

それは、私が当事者じゃないからで、当事者の方に読ませたら「お前は実際育ててないからそんなことが言えるんだ」と怒られてしまうかもしれないからだ。

でも、もしそんなお子さんを持っている方がいらしたとしたら、一意見として参考にしていただけるならそれだけでいいと思い、思い切って書いてみることにした。

それは、「もし子供に障害があったら、普通の学校で学ばせるか、養護学校で学ばせるか」ということである。

まず、普通の学校に通わせたいという方は、大前提として、学校側に受け入れる体制が整っているのか、実際に学校へ行って話をよく聞かなくてはならない。

体制、というのは2つある。

身体的に不自由なお子さんの場合にはバリアフリーであるかどうか、など学校の建物そのものをよく見る必要があるが、知的障害児の場合、それらの子を扱い慣れている先生がいるか、ということを必ず聞く。

というのは、今や健常児もそうでない子も一緒に勉強するのがいいのだ、という意見も広く知られるようになり、学校側としては正直困ったな、と思う場合でも来る者は拒まないからだ。

とくに30人も児童がいる教室に、その子を混ぜてしまうと、ただでさえ30人もの児童を一人で見るのは大変であるというのに、気がついたらその子がお客様になってしまっていた、という例も多い。

確かに、そのクラスの子供達にとっては、その子の違いを認めて仲良くしたり、時に手伝ってあげたりする事で、精神的にも大きく成長するきっかけになるに違いないと思う。

しかし、当の本人にとってはどうなのだろうか。

私は、肢体不自由の学校や盲学校、聾学校では働いたことがないので、ここからは知的障害をもつお子さまの話に限らせていただく。その子供達だって、言うまでもないことだが日々成長しており、普通のことさして変わらない発達段階をたどって行くわけである。ただそれが、普通の子の何倍もかかってしまうだけだ。

と言うことは、もちろん、それぞれの発達段階にふさわしい教育内容があるわけで、適切な時期に、適切なことを教えてあげれば、少しずつではあってものびていくのである。

それを、年齢が同じと言うだけで普通学級にいれてしまうのは、6年生の教室に1年生を入れてしまうようなものだ。本人にとってはかなりのストレスになるに違いない。

普通学校から養護学校に転入してくる子供の中には、時々、前校からの申し渡しに、「時々パニックになり乱暴な行動をとるので注意してください。」のようなことが書かれている。

しかし養護学校へ来てしまうと、そんなことはただの一度もなく、本当にいつもニコニコ、温厚な性格の子だった、なんていうこともよくあるのである。

それは、自分のペースで行動できないストレスからきたパニック、ということだ。そういう子供は自己表現が上手ではないので、そんな形で現れてしまったのだ。

もちろんなかには普通学級でも楽しくやっていけることもいるのだが、そんな場合でも子供の様子を長期的に観察して、いらいらしたり、表情が険しくなる、などの様子が見られたら環境を変えることも考えた方がいいと思う。

特に自閉のお子さんは、環境の変化に対応するのは非常に難しい。1時間ごとに国語だ、算数だ、体育だ、というのは苦痛であると想像する。

それでも、一緒に学ばせることには意味があるのか。

こんな考え方もある。

その時はこの子にとっては大変でも、障害のある人が身近にいる/いたと言う人を増やしていくことで、地道ではあるが将来的に社会の目が向くようになり、住みやすい世の中になる。

しかしやはり、我が子が今日、幸せそうな表情をしているほうがいいではないか。

養護学校であれば、一人一人の発達段階にあわせた指導が基本である。児童生徒が理解しやすいように、カリキュラムも帯になっていて、毎日同じだ。また、親御さん同士もよい仲間になれ、親が孤独に悩んでしまうこともない。

そして、これも賛否両論なのだが、普通の学校にいたら、障害を持っている子供は、受け入れてはもらえても、学校の中の中心的な存在にはなれないのだ。たとえば、生徒会、生徒会長、各部活の部長、学級委員長、などというのは無縁で学生時代を終える。

養護学校では、そういう責任のある役割も持たせて経験させることができる。

これに対して異を唱える人の意見はこうだ。

「社会に出たら、絶対にそういう立場になれることはないのだから、そんな自分にスポットが当たるような経験をたくさんさせてしまうとあとでそのギャップに悲しまされる。今から脇役の存在に慣れておいたほうが本人は幸せなんだ。持ち上げたり、誉めたりはしないほうがいい。」

これには少し考えさせられたが、それでも私は一生のうち学生でいられるあいだ位は自分にスポットが当たるような経験をしてもばちはあたらないと思う。

本人に聞かないとわからないことだが、社会に出てつらくなったとき、学生時代の温かい思い出を思い出して、それを心のよりどころにして欲しいと思うのだ。

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習い事の功罪②〈罪〉

・・・という訳で、習い事には概ね賛成の私であるが、物事にはいい面もあれば悪い面もある。それは当然のことだ。

習い事についてもいろいろ言われていて、よく耳にするのはこんなことだ。

・習い事で忙しすぎて学校の友達と遊ぶ暇がない。

・学習塾などにいくと、学校の勉強がつまらなくなる。

・親子で会話する時間がない。

・コンビニなどに行くことで食生活が乱れる。

・夜の街を子供だけで歩くようになる。

これについてはその通りだと思うし、各方面で取り上げられているので今回は何も言わないが、ほかにもこんなことがある。

それに気づいたのは、ある土曜日、何気なく近所の小学校でサッカーを習っている少年達を見ていたときである。普通なら、スポーツ少年、いいなあ、と思うところだが、私はその時、なにか違和感を感じていた。

休みの日のこんな時間、自分の子供の時は近所を走り回ったりいたずらしたり、時にはぐうたらしたりしていたんじゃないのかな、と思ったのだ。

何が違うかと言えば、大人がいるかいないだ。休みの日まで、コーチがついて、次はランニングだ、次はドリブルだ、と指図をしている。子供は何の疑問もなく従っている。

そういえば、子供同士が遊んでいて変な光景を見たことがある。

その子は、一人でいるのは絶対に嫌なので、近所の友だちに電話を掛けまくって遊ぶ約束をとりつけるまではよかったのだが、せっかく友だちが遊びに来ても、お互いに「ねーねー、なにする?」「なにしよっか~、」といいながら時間はどんどん過ぎていく。結局何もしないで夕方になってバイバイ。

なんのことはない、彼女たちは、自分たちが何をして遊ぶかを決められなかったのだ。

「指示待ち人間」という言葉がある。

自分で考えて動けない人をこう呼ぶのであるが、これはこの人達が悪いと言うよりは、こういう人たちを作ってしまった環境が悪い。

家では親に、学校では先生に、余暇は習い事で始終指示されてそれに慣れてしまった子供は、自分の頭で考えることをやめてしまう。当たり前と言えば当たり前だ。

以前、養護学校に勤めていたとき、普通の学校から転任してきた先生が何から何まで先回りして子供に指示を与えていたので驚いたことがあったが、その後自分が小学校へ異動してそのわけがわかった。

指示を与えないと子供が動けないのだ。そしてその先回りの指示がさらに自分考えられない子供をつくる、という悪循環に陥っている。

習い事をさせると、人にはできない技能が身に付いたり世界が広がったりしていいこともたくさんあるが、子供はやっぱり大人の介入しない世界で、時にはめちゃくちゃに意味のないことをしたりして遊ぶ時間が絶対に必要なのだと改めて思うのだ。

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習い事の功罪①〈功〉

子供の数が減って子供一人に掛けられるお金も増えたことだし、

土曜日も休みになったことだし、子供に習い事をさせているご家庭は多いのではないだろうか。

私自身も子供の頃にバレエとピアノを習っており、すごく楽しかった思い出があるので

子供がしたいといったら何か一つくらいはさせてやりたいと思っている。

ただ楽しい、と言うこと以外にも習い事をさせたい理由はほかにもある。

一番大きい理由は、学校という狭い世界の中だけで生活して欲しくないということだ。

学校にしか行っていないと、子供の生きる世界が100%学校だけになってしまい、

そこでの価値観が全てになってしまう。

もしそこで、勉強ができなかったら、友だちにいじめられたら、もうその子供は逃げ場がない。

ところが、概ね習い事は、自分の好きなこと、得意なことをしているため、上達もしやすく、精神的にも満たされる。

また反対に、その中である程度自分の思うとおりになっていたとしても、それが井の中の蛙であることを知るいい機会でもある。

人間の価値なんていうものは多角的に評価されるべきで、学校でもらう通知票だけが全てではもちろんない。

しかしその紙切れに振り回されている人は驚くほど多く、それでは子供も気の毒だ。

私事ではあるが、子供の頃は自己主張が激しかったために友だちとぶつかることも少なくなかった。それはどの子も同じようなもので、みんなもけんかしたりくっついたりを始終繰り返していたのだが、たまたま先生がわたしを大きく取り上げてしまい、通知票にも「人間関係に問題あり」などと書かれ、父に厳しく叱られた。

そんなこんなで一時期友だち関係でかなり精神的にきつかった時期があったが、習い事にいくと変わらぬ友だちが迎えてくれ、すごく救われたのを覚えている。

だから、習い事といっても、クラスの友だちと一緒に行きたい、なんていうのはあまりお奨めしたくない。クラスでの力関係、人間関係をそのまま持ち越す可能性が高いからだ。その子にクラスの勉強で負けて、習い事で負けて・・・なんてことになるよりも、その子にはないものを自分はもっている、と言う方がその後の自信につながるだろう。

そうでなくとも、違う学校、違う学年の友だちとつきあうことは、縦の関係が希薄になっていると言われている昨今、やはり大切なことだと思う。

ちなみに、私は通知票を非難しているわけではない。

ただ、通知票は、子供のごく限られた一面を評価しているに過ぎず、子供の人間性を表すものではないと言うことだ。

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観察力

最近の小学校の図工の教科書は、昔の教科書とすこし違う。

子供の創造力、イマジネーションをフルにつかって作品をつくることを目的とした題材が増えている。

そのこと自体にはなにも文句はない。いいことだと思う。

(それに対して点数をつけなくてはならないというのがなかなか難しい所ではあるのだが・・)

ところが、そういう活動が増えるとともに、減ってきた活動がある。

「観察して書く」活動だ。

今の小学生は、1年・2年生のときは生活科をという教科をやり、3年生から理科をやる。

この「理科」をし始めると、どうしても観察する力が必要になってくる。でも、図工であまり練習していないのでそれができない。

植物を観察しても、実験をしてもそれを絵でかきあらわせない。

観察力が育たなかったから、実験をしてもそこから導かれる意味を見いだせない。

私は自称、観察力はある方で、人の特徴をつかんで似顔絵を描いたりするのがうまかった。そのときはクラスの人にウケる程度で、何の役にも立たないと思っていたが、それがのちのち結構役にたっていた。

それは、養護学校に勤務していた時のことである。

相手は知的障害をもつお子さん達で、言葉を発しない子もたくさんいた。

「今日は元気かな」と声を掛けても自分の健康状態を話す子はほとんどおらず、顔色や表情などを観察することで今日の健康を見定めた。

そのほか、「トイレに生きたそうか」「てんかん発作がきそうか」「どこか痛くないか」など、全て表情や様子から読みとれる。

こう書くと、特殊な世界で働いている人にだけ必要な力かと思われるかもしれないが、そうではない。

観察力は、人間関係を円滑にする上で絶対に不可欠だ。

親御さんはお子さんを、お子さんは友だちを、周りの人をよく観察して欲しい。

そして、ちょっといつもと様子が違うと思ったら、「元気ないね。大丈夫?」と声を掛けて欲しい。悲しそうだったら、「なにかあったの?私にできることある?」と、嬉しそうだったら、「何かいいことあったんだね。」言ってあげて欲しい。

そうすることで、相手は「自分のことを見ていてくれているんだな。」と嬉しくなる。自分に興味を持ってもらって嫌がる人間は基本的にはいないのだ。

よりよい人間関係をつくるきっかけは、観察さえしていれば案外簡単につくれるものである。

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言葉の力

今、日本語に携わる仕事をしている。

いつも思うのだが、知れば知るほど日本語は奥が深く、その繊細な日本語の一つ一つをニュアンスまで理解して使いこなしている私たちはなかなかすごいのである。

たとえば、ある人とある人の会話。

A:「すみません。そのお醤油をとってくださいませんか。」「あ、はい。どうぞ。」

B:「ねえ、それ、とって。」「はいよ。」

いちいち説明されなくても、その二人の関係がどうであるかわかってしまう。非常に便利な言葉だ。

便利であると同時に、怖い面もある。みんな無意識に言葉を選んで話しているが、同じ内容の事柄でも使っている言葉をよく聞くとその人の考えていることがわかってしまうのだ。

たとえば人称代名詞だ。日本語はそれ一つをとっても本当にたくさんあるので外国人泣かせだが、何を使うかで話し手がその人をどう思っているかがばれてしまう。

2人称・・・あなた/貴方・お前・あんた・○○さん・おい・てめえ・・・・

3人称・・・あの人・彼・あいつ・あのやろー・○○君・○○さん・○○様・・・・

日本人なら、どんなシチュエーションでどんな関係の人に対して言っているのかだいたい想像がつくのではないだろうか。

ある子供たちが姉弟げんかをするときに、語尾に「バカ、アホ、死ね」を連発していた。

「お前そんなこともわかんねーのかアホ!」「おめえとは絶対口きかねーからな、死ねブス」

子供などは一時期誰でも汚い言葉、醜い言葉を好んで使う時期がある物だが、それにしてもひどい。

しかし、よく見ていたら、その子の親もその子をしかるとき、ヒステリックになってやはり同じような言葉を使っていたのだ。

言葉というのはまず気持ちがあって、その気持ちが言葉に表れるものだとおもうが、その反対もあるのではないかと思っている。

日常的にある言葉を使っているうちに、いつの間にかその言葉を使うにふさわしい人間になってしまうのではないか。

乱暴で他人を卑下するような表現を使い続けていると、いつの間にか自分の気持ちもそうなってくる。

子供の言葉遣いが乱れてきたら、自分の言葉遣いはどうであるか省みるのもいいかもしれない。

ちなみに、子供のみならず、この「言葉の力」というのは決して侮ってはいけない物で、声に出していう言葉がその人の心のあり方や人格形成に与える影響はとても大きいそうだ。

ネガティブな言葉を口にするとネガティブな人間になってしまうから要注意だ。

「そんなことない」と思っている人でも、音楽は結構暗い歌詞の物を聴き、口ずさんだりしているひとが多い。選曲にも気をつけて、楽しくかつ、気持ちも健康になるような曲を選ぶようにしよう。

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