我が家のプリキュア論争

もうすぐクリスマス。

子ども達へのプレゼントと何にしようかあれこれ悩むのは、毎年面倒くさいけれども、子どもの喜ぶ顔を想像しながらのおもちゃ屋さん巡りは楽しいことでもある。

そんな中、娘に何をプレゼントするかということで我が家でちょっとした論争があった。

それは、私の母(娘にとっては祖母)が娘になにがほしいか尋ねたときのこと。娘は「プリキュアの自転車がほしい。」といったのだった。

実は、プリキュアは私が今一番娘に見せたくないアニメの一つ。

理由は過去の記事でも書いたが、第一に女の子が見るアニメとしてしょっちゅう敵と戦うようなストーリーはふさわしくないと思うこと、第二に、明らかに子どもの購買意欲をかき立てるようなグッズが続々と出てきて、一般の子どもも親もそれに乗せられてしまうような仕掛けが見え見えであることなどである。アニメをみると一見美しい友情などを謳ったりもしているが、結局は自分と立場の違うものは攻撃しようという考え方で、そんなものを幼い頃から肯定するようになってしまったら恐ろしいと思う。

幼い頃に見たアニメは、その子どもの人格の形成に影響を及ぼすので、私は娘に放映時間を知らせていないし、日曜日のその時間は何が別のことをして遊んだりビデオを見せたりして娘がテレビをつけないように必死でごまかしている。

それでも保育園ではどの子もプリキュアが大好きで、娘もその影響を受けているようだ。

すぐさま買ってあげる、という母。ストップをかける私。

私の主張は、母もよく分かってくれるが、みんなが持っているのにうちの娘だけ持っていないのはかわいそう、だという。私の娘だけががまんしてもアニメ界を変えられる訳じゃなし、だったら好きにさせてやればいいじゃないかと。

そうかもしれない。でも、そんな小さな一歩がだんだん大きくなって世の中が変わるんだと私は信じたい。

昔は有機栽培の野菜、無添加の化粧品など、一部のこだわりのある人のみが使っていたものも、だんだんその良さが認められて今では割とどこでも手にはいるようになってきた。

そんな風に、売るがためにテレビアニメを利用し、目新しいものをどんどん製造する会社のものを消費者が選ばないこと。

白黒つけやすくて単純な戦いのシーンより、本当に心を育むようなストーリーのアニメを視聴者が選ぶこと。

小さな働きかけでも、小さな力だからとあきらめてしまっては、何も変わらないと思う。

幼心に、娘は私と母のただならぬ言い合いになんとかしなくては、と思ったらしく、「プリキュアじゃなくてプリンセス(ディズニーの)にする。」と言ってきた。それでとりあえず一件落着。私も胸をなで下ろした。

もう一つ、プリキュアをはじめとする美少女アニメは、一通りのグッズを買わせたらアニメに新しいグッズが登場するか、最終回になって新シリーズが始まることになっている。今年買った自転車は、来年には「新しいのがほしい~。」ってことになるはずだ。ものを大事にする心を育てるのは難しい。

ディズニープリンセスなら、昔も今もずっと愛されてるので、長く乗ってくれると思う。

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目を見よう

 最近、子ども達と目が合わない。放課後クラスの子どもの下校指導をした帰り、帰宅する子ども達の流れに逆行して「さよなら」「さよなら」と声をかけても、返事をしてくれない子どもも多い。私も教師といえども人間なので、声をかけてもかけてもずっと返事が返ってこないと気分が沈んでしまう。あまりに疲れているときなどは、さらにぐったり疲れてしまう気がして、子どもが通らない道をわざわざ選んで学校まで帰るときもある。

 子ども達が意地悪で無視しているわけではない。様子を見ていると、声をかけられたときにこちらを見ない子どもが多いのだ。当然、きこえているけれども、そっちを見る習慣がないため「あれ?なんか声かけられたな。僕にいってるのかな?」ということになる。確認する間もなくすれ違ってしまう、という繰り返しのようだ。

 子ども達は全体的に誰かが話していてもそちらに顔を向けるということができていない。これは学校というよりは家庭生活の変化だと思うのだ。

 我が家も含めてリビングの主役はもはや人ではなく、テレビになっている。家族が集っていても、顔はテレビに向けたまま、互いの顔を見ずに会話をしている。テレビを見ていないときでも、お母さんは忙しくて台所に立ったまま、お父さんもパソコンの前に座ったまま、子どもの話を子どもの顔を見ずに聞いていることが多いのではないだろうか。

 私は急に自分の子が心配になって、食事の時にテレビを消した。仕事をしながらではなく、ちょっと手をとめて話を聞くように心がけている。とはいえ忙しい中、なかなか子どもの話に全部つきあうわけにいかないこともある。テレビか何かで見たのだが、子どもが「ねえ、ねえ」、と話をきりだした時にちょっと手を止めて、子どもの話に関心を持っている、ということを態度で伝えれば、その後は仕事をしながら返事をしても大丈夫だそうだ。私はそんなやりかたでやっている。

 学校では、定期的にあいさつ運動をおこなっている。挨拶はかたちではない。本当に心がこもったとき、自然に相手の方に目が向けられるものだと思う。まだまだ挨拶を気持ちよくできる子は少ないけれども、私もあきらめず、元気な日には子ども達に挨拶をしながら学校へ帰るようにしよう。

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払えよ!給食費!!!

また新聞にのっている!

給食費を払わないバカ親のこと!!!

もちろん生活が苦しくて困っている人のことではない。バカ親たちは、高級車に乗り、普通以上の生活をしているのに払いたくないから払わない、といっているというのだからあきれる。

その子どもは食べさせなければいいかというとそんなことはない。悪いのは親で子どもに罪はない。そんなことが原因でいじめが起こる可能性だってある。

そんな学校側の考えを逆手にとって、本当にずるい。人間として、親として、そんな姿を子どもに見せていいのか。

今は払っている子ども達が犠牲になって給食の質を落とすことで全員に供給しているというが、そんなことで払わないもん勝ちになってしまったら、私も私も、という人が増えかねない。そうしたら、本当に、本当にありがたい給食制度そのものの破綻につながってしまうかもしれないではないか。

忙しいお母さん、そうでないお母さんも、毎朝お弁当を作ることになってしまったらそれはもう大変なことだ。私には無理だ。

給食はプロの栄養士さんが考えた、食べて安心、栄養ばっちりの理想的な食事なのだ。

恥ずかしながら料理があまり得意でない私は、自分が作っている料理が子どもにとってバランスいいおいしい食事であるという自信があまりない。

食べている自分が時々貧血になったりするくらいなので、きっとバランスとして偏っているに違いない。

しかし、そこに1食給食が加わるだけでそれほど健康維持の点でたすかっていることか。

仕事柄私の昼食も毎日給食だがいつもその内容に感心する。

サラダにしても、汁物にしても、使っている食材の数を数えただけでとても家庭ではできないといつも思っている。もちろん味も健康を考えた薄味、しかもおいしい。

早い話が私は給食の大ファンなのである。そんな給食をいつも食べさせていただけることをすごくありがたいと思っている。

その給食をバカにする行為はばちあたりなのだ!!!

給食費を払わない皆さん、自分のことばかり考えて、ほかの人が困っていても関係ない、と思っているかもしれないけど、そんなことばかりしているといつか結局自分に降りかかって来るんじゃないですか?

それより何より、我が子に軽蔑されるようになってしまったら、お金よりも大切な物を失ってしまいますよ。

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わたしとネコ

わたしは、ネコアレルギーだ。

ネコの近くにいるだけで、くしゃみが止まらなくなり、だっこでもしようものならネコに触れたところが赤くなってかゆくてたまらなくなる。

小学校低学年頃まではなんともなかったのだが、ある時からそうなってしまった。

自分でもなんでそうなったのかさっぱりわからず、子供心に思い当たる節がないか探したのだが・・・・・・・。

結論としてその時に思い当たったのは、「ネコの祟り」だった。

小さな頃は動物ならなんでも好きで、捨て猫を見つけるとすぐに拾ってきたり、空き地で隠れて飼っていたりした。

そんなある夏の朝、兄が段ボールに入った5匹の子猫を拾ってきたのだ。

ちなみにその兄は拾ったはいいけどいつもほったらかし、隠れて飼ったりするのはいつも私だった。

子猫はまだ目も開けられず、頼りなげにミーミー泣いていた。

家は一軒家だったが、兄が喘息のだったため、動物は絶対に飼えなかった。

その時も母に見つかって「捨ててきなさい!」と一喝され、段ボールを持ったままうろうろ歩きながら、この猫たちを何とか育ててあげたい、と思ったのだ。

けれども捨ててこないと家へは入れてもらえない。

仕方なく家から1キロほど離れた森の中にネコの入った段ボールを置いて家に帰った。

その森の奥には畑があり、私は畑に行くお百姓さんがネコを拾ってくれることを期待したのだ。

ネコを捨ててしばらくは隠れてこっそりミルクを持っていったりしていたのだが、それもまた見つかってしまい、私はそこへ行くのを辞めてしまった。

きっと誰かに拾われてるさ、と思いたかった。

ところが、それから何ヶ月もたったころ、友だちといろんな話に興じていたとき、こんな事を話した子がいた。

「ねえ、ねえ、わたし、すごい気持ち悪い物見ちゃったの。森に散歩に行ったら、段ボールの中に子犬の骨がたくさん入っていたんだよ。」

一瞬聞いたときはわからずに、「えー、いやだ、こわーい。」なんて言っていたが、しばらくして、それはイヌじゃなくてネコだ、ということに気がついた。

友だちにどの森かを聞いたら、やっぱり間違いなかった。

普段なら恐い物、気持ち悪い物があったという話を聞くと、「よし、探検だ!」などと言って見に行く私であったが、とても見に行く気にはなれなかった。

自分が捨てた、とも言えなかった。

心の中では、ひたすら子猫に申し訳なかった。

子供心にショックは消えず、ネコのアレルギーになったときに「きっと子猫たちが怒ってるんだ」と思ったのだ。

自分では飼えないのに、いたずらに中途半端に情けを掛けたことも強く反省している。

つらい思い出であるが、命に対する責任みたいな物を初めて感じた出来事だった。

自分勝手な理由で、小さな命が5つも失われてしまったのである。

以来私は、動物はかわいいと思いつつも、ペットを飼うのには反対なのだ。

核家族化が進んでいる世の中で、命に触れる体験として、ペットを飼うのはいいことなのかもしれない。

その中で、ペットは飼育ゲームとは違う、生き物を育てるのは本当に忍耐のいることなんだ、ということを学ぶのも大切なことだと思う。

しかし、人間の趣味に、生きているものをつきあわせるのはあまりにかわいそうではないかと思ってしまうのだ。

私の兄の家でイヌを飼い始めたが、初めは世話をするといってねだった二人の子どもも今はしらんかお。

都合のいいときにだっこして楽しんでいるだけで、世話は義姉にまかせっきりだ。

世話といっても兄夫婦は共稼ぎなので昼間は檻の中でお留守番。

しかしイヌだからいいが、もしこれが我が子だったら同じような扱いができるのだろうか。

一人で毎日寂しく待たせておけるのだろうか。

ペットを飼うことは教育上とてもいい効果があるのだろうな、ということはわかっているのだが、ペットの身になると、とても自分の子には飼わせられない

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本屋における本の配置

以前、別の記事で女性コミックの性描写についてちょっと書いた。

そして、気になることとして、子どもが簡単に手が届くところに配置されていることを書いたのだが、先日言った本屋もそうだった。

昔はどぎつい性描写は男性コミックにしか見られなかったが、今では女性の成人向けのコミックもかなりきつい描かれ方をしているものがたくさんある。

それが、男性コミックについては比較的少年向けのものと成人向けのものが分けて置かれているのだが、女性コミックは必ずしもそうではなく、子どもでも知らなければ思わず手にとって開いてしまうような置き方がされているのだ。

私がその本屋で雑誌などを見ていたら、目の前に小学校高学年くらいの女の子がいた。

いかにも真面目そうな子だが、コミックを手にとって、顔は真っ赤に上気し、ちょっと笑っている。

なんか様子が変だと思ったら偶然手にしたのだろうか、成人女性のコミックを読んでいた。

それから私が店内の別のコーナーを一回りし、そこへもどったのだが、その少女はまだ同じような本を見ていた。今度は自分で選んで見ていたのかもしれない。

さりげなく後ろに廻って彼女が読んでいた物をちらりと見たら、かなり激しいセックスシーンだった。

声を掛けようと思ったけれども、恥ずかしくて罪悪感を感じるようになったらかわいそうだと思い、その場はだまっていた。

その代わり、店員の所へ行って、「女性向けのコミックの配置はなんとかならないのか。」と言ってみた。

それを読んでいた少女が、ちょうど自分の姪と同じくらいの年齢だったので余計に人ごとに思えなかった。

その子は、見るからに真面目でおとなしそうな子だ。

真っ赤になった顔を見れば、どれほど興奮していたか、あるいはショックを受けていたかを想像することができる。

親や学校で正しい性教育を受ける前に、あんな形で性についての歪んだ理解をしてしまったら、性についての認識が歪むばかりか、大人、ひどいときには両親への嫌悪感を生む危険もある。

「もしも自分の子、自分の姪がその本屋へ行きたいと言ったら、私はきっと行くな、と言うでしょう。」そんな事も話した。

その時対応してくれた職員は、「店長に伝えます。」といったが、後日再び行ったとき、なにも変わっていなかったので本当にがっかりした。

制作者も販売者もまだまだ、売れることのみ考えて、子ども達の健全な育成を重要課題としてとらえてくれないところが多い。

街に生まれ、街に育つ子どもが多い今、その住環境を私たちやお店を含めた大人達全体でよくしてゆけるような社会になってほしいと思う。

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がんこわい

我が家の家系はがんにならない、と私はずっと思っていた。

実際、とくに母方の親戚は長寿の人が多く、ガンで亡くなった人もあまりいなかった。

ところが、である。

ここ2,3年で、ばたばたとガンになるひとが増えてきた。

12月に他界した祖母もそれが直接の原因ではないがガンを持っていた。

今、祖母の弟が入院している。

叔父もガンを患い、先日手術した所だ。

ガンが死亡率のNO.1であると言うことを実感している今日この頃だ。

世界一の長寿国といわれたのは戦時中を生き抜いたたくましい先輩達のお陰、

今の私たちは生まれたときから化学物質付けでそれほど長生きしないのではないか、と予言をしたひとが昔いた。

実際その通りなのではないか。

ガンに倒れる親戚の姿は、そのまま未来の自分の、そして子どもの姿かもしれないのだ。

私たちは、化学物質について無頓着すぎる。

快適で便利な生活を享受しながら化学調味料や電磁波のリスクからは目を背けようとしている。

自分がいいと思っている物でも実は体に悪い、というものはいくらでもある。

お菓子のお菓子やレトルトの化学調味料、合成着色料は言うに及ばず、子どもが喜ぶウインナーは発色剤、苺ヨーグルトだってプレーンなものに比べれば危ない。できあいのお総菜なら大丈夫かとパックの裏を見れば、添加物の名前がたくさん書いてある。

忙しい毎日、レトルトに頼りたいのはやまやま、料理も下手で買った方が何倍もおいしいのも承知の上だが、なんとか自分の手で作れるように腕を磨かなくては、と最近必死でキッチンに立っている。

素朴な味付けだって案外いけるものだ。

食品のほかにもシャンプー、歯磨き粉、オモチャだって口に入れれば安全とは言えない。

商品を買うときに、原材料がなんなのか、常にチェックする習慣をつけなくてはいけない。

「そんなことを言ったら、何にも食べられないよ。死ぬときは死ぬ。」と豪語してそういう話に耳を傾けない人をよく見かけるが、つらいのはその人だけじゃない。

介護をする家族、残される家族だって同じくらいつらいのだ。そこを考えてほしい。

先日、娘の保育園に行って、担任の先生と話をした。

私はどうしても娘のおやつにスナック菓子を持たせるのは抵抗がある、と話したのだが、園としても人数的に多いため手作りおやつなどはだせないようだった。

後日、たまたま仕事が早く終わり、ちょうどおやつの時間に迎えに行った。

ほかの子がどんなおやつを食べているのかきになり見ていたのだが、食べてるおやつを見て驚いた。

僅か2歳児のおやつがポテトチップだったり、袋のお菓子を食べきれないほど持たされている子もいた。

おやつはまだ胃の小さい子どもが食事で取りきれない栄養分を補給するための物だ。

栄養補給できないばかりか、食品添加物の危険、塩分取りすぎの危険、肥満の危険を子どもに追わせるようなおやつを毎日もたせるとは・・・・。

誰でも子どもを愛している。

愛しているなら、考えてほしい。

知らないなら、知ってほしい。

一番の責任はもちろん親だが、核家族化が進んでいる今の時代、ただあずかるだけでなく、そうした子育ての指針となるようなセンター的役割を保育園も持ってくれたら、と願わないわけではない。

テレビではガン保険のCMが毎日にぎやかだが、保険と同時に、予防の事も真剣に考えた方がいい。

ガンで苦しむ親戚の姿を見て、そんな姿を子どもに見せたくない、また、子どものそんな姿を見たくない、と強く思う。

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はじめての包丁

私は料理が苦手だ。
自分一人なら何を食べてもいいが、子供がいるとなると栄養のバランスなども気をつけなくてはならないため、毎日の食事の支度は本当に頭が痛い。

私が子供のころは両親のほかに祖父母とも同居していた。母は専業主婦、祖母も、時には父も台所に立つ人だったので、自分が料理をする、という機会には恵まれなかった。いざやってみようとしても母が心配して付きっきりでご指導くださるため、それをうっとおしく感じていつしか作ってみることすらしなくなってしまった。

両親が出かけるときは、必要なだけの冷凍食品やカップラーメンなどを買ってストックして置いてくれた。

そんな感じだったから料理にはかなりコンプレックスをもっていた。職場には、料理の話題になると、すぐに私の名前をだすひともいてくやしかった。料理が出来るのがそんなに偉いのか!私は英語も話せるしスポーツもできる。でも一度だって他の人に「あなたそれくらい話せないとね。」なんて言ったことはない。でも、なんだって料理が出来ないと笑われないといけないのか。そんな風に思っていた。

テレビ番組で、通りすがりの女の子に料理をさせてその出来なさ加減を笑う、というコーナーがあるが、あんな物は大嫌いだ。そもそも、なぜ女の子ばかりが対象なのか?また、その子が何も出来ないのは家庭、環境にも原因があるのだ。あれを見ていると、まるで自分が笑われているような感じがする。

私が料理をするようになったのはなんと30を過ぎてからのことだ。オーストラリアに留学して、一人で生活していたため、さすがに毎日外食、というわけには行かなくなったのだ。

しかし、実際にやってみると、なんだ、こんな事を私は難しく考えていたのか。という感じだった。凝った料理は未だにできないが、シンプルな調理法だってかえっておいしくいただけるものだ。同じアパートにいた韓国人達は、「えくぼは料理がうまいなあ」なんて言っていた。私はこっちに来るまでろくに包丁を持ったことがなかった事はもちろん内緒にしていた。

そんなこんなで料理に苦労した私は、娘には料理が出来るようになってほしい、と思っている。
食は生活の基本だ。料理を通して食材を知ることもできる。手を掛けることで感謝の気持ちも生まれる。最近では、頭も良くなると言われている。そして何より、娘と台所に立つと、苦手な料理も楽しく感じるのだ。

早いかな、と思ったが娘に子ども用の包丁とまな板をプレゼントした。おままごとでしか扱ったことのない包丁を不器用に持つ姿は危なっかしくてひやひやするが、ぎこちない手つきで胡瓜を切っている。幼児でも、ピーラーで皮をむく、卵を混ぜる、ごまをかける、など出来ることはいろいろある。

一番嬉しいのは、「私が作ったの」といって野菜をもりもり食べるようになったことだ。時間がないとつい自分でやった方が早い、となってしまうこともあるが忙しいからこそ、料理の時間もコミュニケーションの大事なひとときにしたい。娘に料理を手伝わせるといいことがたくさん。これは是非続けて行きたいと思う。

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後世に伝えること

子供を持って思うことがある。

私がこの子にしてあげるべき事はなんなのだろうか、ということだ。

親として、人間として、十分な教育をしてあげることだろうか。

何不自由ないようにお金を残すことだろうか。

心に残る体験をたくさん一緒にしてあげることだろうか。

子供の心が満たされるように十二分に愛してあげることだろうか。

どれも子供を思う親ならばしてあげたいと思って当然のことばかりだ。

しかし、親としてまず第一に考えなければならないことは、子供が自分で生活できるようにしてあげることではないかと思うのだ。

自然界に目を向けてみれば、全ての親は子供に餌の取り方を教えてから子離れする。

なのに人間は、家事の仕方がわからない、子供の育て方がわからない、お金の管理の仕方がわからない、そんな状態で子供に家庭を持たせてしまう人が多いのではないだろうか。

これは人ごとではない。自分のことだ。

若いときは随分自由にさせてもらって、お陰で私は仕事や趣味に没頭できた。

しかし、そこそこの年になり家庭をもって独立してみると、

自分は家庭を維持することについて何も知らなかったことを実感したのだ。

今も見よう見まねで失敗を繰り返しながら学んでいる最中。

それでも今更誰にも聞けない初歩的な事がわからないこともある。

(たとえば、料理したことのない食材を人からもらってしまったときなど・・・・・。)

これは学校で教えてくれる事ではない。

学校でも家庭科は学んだはずだが、あの内容を生活していく中で思い出している人は殆どいないのではないだろうか。

なぜなら、家庭生活は毎日毎日の実践の積み重ねに他ならなく、週に何度かの授業でカバーしきれないのは当然の事だ。

家庭や育児についてよく知らずに楽観的な見通しを持ったまま家庭を持ってしまうと、自分の考えと実際の生活の大変さとのギャップに身も心も疲れてしまう。

家事や育児に関わる問題はそんな所からきているのではないかと考えることもできる。

一昔前の人は誰でも出来たことが、今の人は出来ない。

そんなことはいくらでもある。

日本もかつては非常に貧しく苦しい時代があり、その頃の日本に生きた方たちは自分の子供にはこんな苦労はさせたくないと、苦労をさせないことが愛情の証だったのかもしれない。

しかし、それを繰り返すと家庭を作れないのに家庭を持ってしまっている人が増えてしまう。状況が悪くなることはあっても、良くなることはない。

子供の自立を助けるのは家庭の役割である。

子供がだらしないと親が笑われる、と昔はよく言われたものである。

そうは行っても何をするにも自分でやってしまった方が早いという方もいるだろう。しかし幸い今は便利な家電がたくさんあるので、時間短縮出来た分を子供に当てれば良い。子供とのコミュニケーションにもなる。

自分がしてきたことは全て与えるくらいの気持ちで子供に伝えることができるなら、その子供はそれプラス自らが得た新しい知識と技能を後世につたえられるだろう。そうして人類はどんどん賢くなっていった、という風になってほしい。

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我が子の環境

いつもは子供が育つ環境について、もっとこうすればいいのに、こうしたほうがいい、

などと言うことを書いているが、もっと根本的なところで、自分自身がどうしていいか

わからなく、長い時間考えたり悩んだりすることがある。

それは、ほかでもない、我が子が育つ環境だ。

何度か書いているが、私は千葉で生まれ育ったが子供が産まれてから離婚をし、

新しい職に就いて長野へ越してきた。

もちろん仕事上の理由もあったが、長野のような自然を近くに感じられる環境で

子供を育てたいと思ったのも大きな理由だ。

今住んでいるところは、360度山々に囲まれ、毎日自然の移り変わりを感じることができる。千葉にいた頃は、休日遠出をしたときにしか見られなかった贅沢な景色を毎日見ながら生活することができるのだ。

自然の美しさもあるが、何より大事だと思ったのは子供達の純朴さだ。

千葉で学校に勤務していた頃は、時の移り変わりとともに子供達の様子、遊び方、

考え方などがどんどん変わっていくのを感じていた。

豊かになった生活と引き替えに、なんか大事な物を失っていく様子・・。

それを見ていてもどうすることもできない無力さも感じていていた。

また、転勤、異動などを通じて、都会から遠くなればなるほど、子供が子供らしくなることも実感していた。

子供にとって学校の環境、友だちの環境は非常に重要だ。

だから私は長野でのびのび育てることが娘にとっていいことだと考えてここへきたのだ。

また、今の私の仕事は、ちょっと給料は少ないが、私にとってはずっとしたかった仕事だ。

親が、頑張れば夢を叶えることができた、と言う姿も娘に見せたかった。

したい仕事を一生懸命にしている姿を見せることが将来彼女がしたいことを見つけたときに助けになると思っていた。

けれども、この1年半、ここで暮らして、子供のためにしてきたことが実は子供のために

なっていないんじゃないか、という想いが次第に大きくなってきた。

いそがし過ぎるのである。

子供に会えるのは夜7時に保育園にお迎えに行ったとき。2時間後には就寝だ。

ゆっくり遊んであげる時間はない。

土曜日も預けて仕事をしていることがほとんどだ。

せっかく信州へきて、足を伸ばせばいくらでも

美しい山々があるというのに、

ほとんど行ったことがない。

普段元気なときはいいが、病気などで保育園から電話がかかってきても、

すぐに引き取りにいける人がいない。

そんなときは実家から私の両親が車を飛ばしてきてくれ、頭が上がらないほど感謝しているが、それでも両親が到着するまではいつも不安で、私がそうなのだから娘はもっとつらい想いをしていただろうと想像する。

また、給料面でもかなり心配だ。

好きなこと=高収入を得られること、と言う人は幸せな人で、

私の場合はそうではない。

毎月なんとか無事に暮らせるが、娘の将来のために貯金をしたり、

もし娘になにかの才能を発見したとしても、それを習わせたりする余裕はない。

第一、ここには習い事をさせたくてもそういう場所が自体が少ない。

世の中お金ではない、ときれい事を言いたいところだけど、

実際に子供を育ててみると、子供には最低限のことはしてあげられるように

なりたいとやはり思う。

いうまでもなく、子供にとって一番身近で大切な環境は家庭だ。

家の場合は母子家庭なので私が彼女の家族だ。

寂しい想いをさせていいわけがないし、金銭的な理由の為にしたいことをさせてもらえないのも彼女にとっての不幸になりうる。

したいことをする、というのは私の自己満足であり、子供にしてみれば少しでも長い時間ママといられるほうが幸せではないか、

そんなことを常に考えるようになり、このたび退職して千葉に戻ることにした。

私が子供に与えてあげたいと思った自然や学校の環境より、家庭環境のほうが優先順位が高いと判断したからである。

これで私は定職を失い、一度辞めた教職に就くために非常勤講師から出直す

ことになった。

今度住むところは昔住んでいた所に近いところなので、兄弟や友だちも多く、なにかあったときに助けてくれるはずだ。

今の決断が正しかったかどうかは娘が大きくなった頃に答えがでるだろう。

とりあえず4月からはこの1年半を埋めるくらい、子供とちゃんとあそんだり話したりしたいと思う。

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五感を使う

昨日は徹夜で仕事をしたため、今日は夕方まで寝て、暗くなってから買い物に行った。

団地の階段を下りると、どこからともなくいい匂いが・・・・。

「あ、梅だ。」そう思った。

寒い長野にもようやく春がきた。

夜になってから、しかも匂いでで春を感じたのがなんだかおかしかった。

梅の匂いは大好きな匂いの一つだ。

あと好きなのは、キンモクセイ、それから、雨の匂い。

雨が降ると、湿った空気の中に、土の匂いや植物の匂いが混ざる。

世の中バーチャルなものがどんどん増えているけれども、

やっぱり5感を使うことは大切だと思う。

見て、触って、匂いをかぐ。

子供と散歩するときには、5感を意識するような話しかけ方をしている。

「あ、雨の匂いがするね。もうすぐふってくるかな?」

「もうすぐ太陽が沈むよ。まぶしいね、でもきれいだねえ。」

「電車の音が聞こえるよ。ほら、見て。電車が来るよ。」

さわれる物があれば触る。

石を拾ったり、ドングリを集めたり・・・・

そんな風にして、自然に5感を使うことを覚えて欲しいとおもう。

それに、やっぱりお花。お花の匂いをかぐのは娘も大好きだ。

散歩の時はいいが、近所のスーパーの中にあるお花やさんでもくんくんやっている。

初めはお花を取ってしまうのではないかとはらはら見ていたが、

「とっちゃだめよ。触らないで匂いだけ嗅いでね。」と言ったらわかったようだ。

ちびのくせに両手を後ろで組んで花に顔をつっこんでくんくんやっている姿を見て、

お店の人も何も言わずに苦笑している。

私が育ったところは千葉だが田舎だったので、子供時代は結構自然の中で

遊んでいた。自然のいい匂いをたくさん嗅いで育つと、そうじゃない物、危険な物に敏感になることができる。

たとえば、食べ物の中に、人工的な香料などが入っていると、匂いでわかる。

なんとなく食べたくない時は、食べない方がいい。

近所のゴミ処理場で不法な焼却の仕方をしているときも、空気の匂いでわかる。

何度か交番に電話して注意してもらったことがある。

匂いに限らず、5感が発達していることは自分の身を守ることにつながると思う。

人工的なもの、バーチャルな物に囲まれて育ってしまうと、その辺が鈍くなってしまい

肝心なときに危険回避ができなくなる恐れがある。

なるべくちいさいうちから5感は鍛えてあげたいと思う。

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