運動会も変わった・・・

4月から新しい学校に赴任になった。

普通の小学校は久々だったのだが、子ども達はやはりかわいく、子どもらしい感じがした。

しかし、「あれ?子どもの様子が随分ちがうな」と思ったのは、先日行われた運動会の練習の際だった。

子ども達は、個人種目、団体種目、ダンスなど、どの学年もだいたい3種目くらいに出場し、そのための練習が毎日行われていた。

その様子を見ていると、とにかくみんな先生の話が聞けないので驚いた。

入場の手順やゲームの説明、ダンスの振り付けなど、先生たちが一生懸命に説明されているのに、まるで自分には関係ないかのように友達と話し始める。

当然わからず、何度もやり直しをさせられて文句を言っている。

聞いていればすぐすむんだけどな・・・ということにいつまでも気づかない。

子ども達に悪気がある様子もないのだが、

ここはビシッとやろう、とか、上手にできることがうれしい、という雰囲気はあまり感じられなかった。

小学校の先生達も、「昔はビシッとできないと何回もやり直しをさせたりしてたんだけど、今はそういうことを求めないんだよね。楽しい運動会をしましょう、っていう感じに変わってきているから・・・・」とおっしゃっていた。

でも、私はこの練習風景をみてなんか怖いものを感じてしまった。

小学校のころ、「体育って何のためにするの?」という児童の問いに、

先生は「健康のため、そして自分の身を守るためだ」と教えてくださった。

この子ども達は、こんなに人の話が聞けなくて、周りの様子を見て判断して行動できなくて、もしも災害などが起きたら無事に避難できるのだろうか?

運動会の本番はさすがにお客さんもたくさんきてくださり、かっこいいところを見せたいと子ども達も張り切っていたので結果としていい運動会だった、ということになったのだろうが、運動会は日頃の体育学習の発表の場だ。そのときだけよければすべてよかった、ということにしてよいのだろうか。

災害は忘れた頃にやってくる。

ニュースで時々大きな地震が報じられると、私はいつも今子どもが学校にいる時間かな、ということが気になる。そんな時に子ども達を無事に避難させなくてはならない先生方の責任は非常に大きなものがある。非常時にこんなに統制のとれない子ども達だったら、彼らを無事に避難させられるかどうか。正直、自分は、といわれると自信がなくなってしまう。

いまや体育だけでなく、というか、体育でさえも子どもにそれほど厳しいことを言わなくなってしまった。訓練、というと聞こえは悪いのかもしれないが、子どもの命を守るという意味では、ある程度は日頃からの練習が必要であると思わされた運動会だった。

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払えよ!給食費!!!

また新聞にのっている!

給食費を払わないバカ親のこと!!!

もちろん生活が苦しくて困っている人のことではない。バカ親たちは、高級車に乗り、普通以上の生活をしているのに払いたくないから払わない、といっているというのだからあきれる。

その子どもは食べさせなければいいかというとそんなことはない。悪いのは親で子どもに罪はない。そんなことが原因でいじめが起こる可能性だってある。

そんな学校側の考えを逆手にとって、本当にずるい。人間として、親として、そんな姿を子どもに見せていいのか。

今は払っている子ども達が犠牲になって給食の質を落とすことで全員に供給しているというが、そんなことで払わないもん勝ちになってしまったら、私も私も、という人が増えかねない。そうしたら、本当に、本当にありがたい給食制度そのものの破綻につながってしまうかもしれないではないか。

忙しいお母さん、そうでないお母さんも、毎朝お弁当を作ることになってしまったらそれはもう大変なことだ。私には無理だ。

給食はプロの栄養士さんが考えた、食べて安心、栄養ばっちりの理想的な食事なのだ。

恥ずかしながら料理があまり得意でない私は、自分が作っている料理が子どもにとってバランスいいおいしい食事であるという自信があまりない。

食べている自分が時々貧血になったりするくらいなので、きっとバランスとして偏っているに違いない。

しかし、そこに1食給食が加わるだけでそれほど健康維持の点でたすかっていることか。

仕事柄私の昼食も毎日給食だがいつもその内容に感心する。

サラダにしても、汁物にしても、使っている食材の数を数えただけでとても家庭ではできないといつも思っている。もちろん味も健康を考えた薄味、しかもおいしい。

早い話が私は給食の大ファンなのである。そんな給食をいつも食べさせていただけることをすごくありがたいと思っている。

その給食をバカにする行為はばちあたりなのだ!!!

給食費を払わない皆さん、自分のことばかり考えて、ほかの人が困っていても関係ない、と思っているかもしれないけど、そんなことばかりしているといつか結局自分に降りかかって来るんじゃないですか?

それより何より、我が子に軽蔑されるようになってしまったら、お金よりも大切な物を失ってしまいますよ。

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30代を雇用して!

私は30代後半だ。

ベビーブームの数年手前、しかしそれなりに同世代の数が多く、大学に入るにも卒業後に仕事を探すにも競争率が高かった。

しかも大学在学中にバブルが崩壊し、それから経済は長い長い低迷の時代にはいっていった。

正月の新聞に、私たちの年代の記事が載っていた。

私たちの年代は、会社が人件費削減のために社員を減らしてきたおり、パートやアルバイト社員として会社を支えてきた人が多いという。現在の景気回復の陰にはそうした一人一人の努力があったのである。

しかしその記事には、企業の経営状態が安定してきても、その人達を社員として雇用する考えがない会社が多い、とあり、憤りを感じた。企業は、一から教育するのであればやはり若い社員がいいという考えなのである。誰のお陰で会社はやってこられたのか。従業員を大切にしない会社はそのうち自分の首を絞めることになるだろう。

私は幸い仕事には就いているが、同年代の同僚はほとんどいない。ずっと若いか、ずっとベテランの方々に挟まれている。

昔は友だちが少なくてつまらない、位に考えていたが、それだけではすまされない。今、私たちの年代はパパ、ママまっさかりだからだ。

少子化の歯止めに先が見えない日本。いま、子どもを育てるべき年代の人が、これでは子どもどころか、家族を持つこともできない状況だ。少子化対策のために、児童手当を手厚くしたり、子どもを預ける環境をととのえることはとても喜ばしいことだが、それよりなにより雇用だ。

人間が普通に家族を持って普通に暮らせる社会に一日も早くなって欲しいと願うばかりである。

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いじめを生む考え方

早いものでもう2007年になってから2週間が過ぎてしまった。

昨年は未来のある子ども達が相次いで自ら命をたつ、と言う痛ましい事件が続き、なんとも暗い気持ちで新年を迎えることになってしまった。

文部大臣がいじめに対する緊急アピールを出し、テレビでは特番を組んで有名人やアイドルが自分のいじめられた体験を語ったり、いじめに関わる人にメッセージを投げかけたりしている。

その中で、先日のSMAP×SMAPに、ヤンキー先生こと義家先生が出ていた。番組中YES/NOのアンケートで、「いじめられる側にも問題がある」という質問に[YES]と答えた子どもを怒鳴りつけていた姿が印象的だった。

「それじゃ、悪い奴はいじめていいのか!悪い奴は殺してもいいってこととおんなじだろ!俺はそんなの絶対許さないからな!!」

全くその通りだと思った。他人に嫌がられるような行為をする人は確かにいる。しかし、それがいじめていいという理由にはけしてならない。

しかし、そんな考え方をする子ども達ばかりを責めるわけにはいかない。そういう考え方をしてしまう環境を作っているのは私たち大人だからだ。

現在、私は養護学校に勤務している。先日、近隣の養護学校、特殊学級などと合同の発表会があった。のびのび、楽しく演技している子ども達の様子には感動させられるものがあったのだが、その出し物に私は疑問を感じていた。

たとえば、おなじみの「ももたろう」。善と悪に別れて良い方が悪い方をやっつける、と言う話。ほかの学校の出し物もこのパターンが非常に多かった。

障害をもった子ども達は残念なことだがまだまだ社会の中においては少数派であり、いわゆる社会的弱者である。そんな子ども達が社会へでていくには、その社会がどんな人たちも受け入れてくれる懐の広い社会でなければならない。そんな子ども達と関わっている教員が、悪い奴はやっつければいい、というような出し物を選んでいるのだから、教員もかなり感覚が麻痺してしまっているのではないかと思う。

それから、「ぎんいろのさかな」の話もあった。銀の鱗をもつ魚が、ほかの魚にその鱗をわけてやらなかったことで、誰にも遊んでもらえなくなる話だ。そして、反省して鱗をわけてやるとまた仲間に入れてもらえる。

これが人間だったらどうだろう。物をあげないと仲間はずれにされるのか。私にはなぜこの話がいい話といわれているかよくわからない。

毎度言うようだが、悪い奴に制裁を加えてもよい、という考え方は間違っているにも関わらず、それにならされている人は大人にも、ましてや教員の中にも多い、ということだ。

しかも人間関係はそんなに白黒はっきりしているものではなく、どちらが本当に悪いかと言うことは立場によって違うのだ。自分から見れば相手は悪い。相手から見ても同じ事。

そのことを周りの大人がまず気づいて、子どもに、相手の立場に立てる気持ち、相手の気持ちを想像できる力を育てていかなくてはならない。

それでも、いじめはなくならないと言う人もいる。

昔、藤子F不二雄の漫画に、「嫌われ屋」なる男が出てきていた。彼は宇宙船にクルーとして乗り込むのだが、やることなすこと人に嫌がられるような事で、彼の悪口を言うことでほかの乗組員が団結していく。実はそれは上司が雇ったプロの嫌われ役だったのだ。宇宙という危険な場所では、みんながまとまり力を合わせることが何より大切だからで、「嫌われ屋」は人間の、同一の敵がいると団結する習性に目を付けた商売だったのだ。

動物の世界にもいじめがあるという。私たちも動物である限りその習性から逃れられないのか。人間である以上、理性の力で克服できると信じたい。

自ら命を絶たざるを得なかった多くの若い魂のご冥福を心からお祈りいたします。

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わたしとネコ

わたしは、ネコアレルギーだ。

ネコの近くにいるだけで、くしゃみが止まらなくなり、だっこでもしようものならネコに触れたところが赤くなってかゆくてたまらなくなる。

小学校低学年頃まではなんともなかったのだが、ある時からそうなってしまった。

自分でもなんでそうなったのかさっぱりわからず、子供心に思い当たる節がないか探したのだが・・・・・・・。

結論としてその時に思い当たったのは、「ネコの祟り」だった。

小さな頃は動物ならなんでも好きで、捨て猫を見つけるとすぐに拾ってきたり、空き地で隠れて飼っていたりした。

そんなある夏の朝、兄が段ボールに入った5匹の子猫を拾ってきたのだ。

ちなみにその兄は拾ったはいいけどいつもほったらかし、隠れて飼ったりするのはいつも私だった。

子猫はまだ目も開けられず、頼りなげにミーミー泣いていた。

家は一軒家だったが、兄が喘息のだったため、動物は絶対に飼えなかった。

その時も母に見つかって「捨ててきなさい!」と一喝され、段ボールを持ったままうろうろ歩きながら、この猫たちを何とか育ててあげたい、と思ったのだ。

けれども捨ててこないと家へは入れてもらえない。

仕方なく家から1キロほど離れた森の中にネコの入った段ボールを置いて家に帰った。

その森の奥には畑があり、私は畑に行くお百姓さんがネコを拾ってくれることを期待したのだ。

ネコを捨ててしばらくは隠れてこっそりミルクを持っていったりしていたのだが、それもまた見つかってしまい、私はそこへ行くのを辞めてしまった。

きっと誰かに拾われてるさ、と思いたかった。

ところが、それから何ヶ月もたったころ、友だちといろんな話に興じていたとき、こんな事を話した子がいた。

「ねえ、ねえ、わたし、すごい気持ち悪い物見ちゃったの。森に散歩に行ったら、段ボールの中に子犬の骨がたくさん入っていたんだよ。」

一瞬聞いたときはわからずに、「えー、いやだ、こわーい。」なんて言っていたが、しばらくして、それはイヌじゃなくてネコだ、ということに気がついた。

友だちにどの森かを聞いたら、やっぱり間違いなかった。

普段なら恐い物、気持ち悪い物があったという話を聞くと、「よし、探検だ!」などと言って見に行く私であったが、とても見に行く気にはなれなかった。

自分が捨てた、とも言えなかった。

心の中では、ひたすら子猫に申し訳なかった。

子供心にショックは消えず、ネコのアレルギーになったときに「きっと子猫たちが怒ってるんだ」と思ったのだ。

自分では飼えないのに、いたずらに中途半端に情けを掛けたことも強く反省している。

つらい思い出であるが、命に対する責任みたいな物を初めて感じた出来事だった。

自分勝手な理由で、小さな命が5つも失われてしまったのである。

以来私は、動物はかわいいと思いつつも、ペットを飼うのには反対なのだ。

核家族化が進んでいる世の中で、命に触れる体験として、ペットを飼うのはいいことなのかもしれない。

その中で、ペットは飼育ゲームとは違う、生き物を育てるのは本当に忍耐のいることなんだ、ということを学ぶのも大切なことだと思う。

しかし、人間の趣味に、生きているものをつきあわせるのはあまりにかわいそうではないかと思ってしまうのだ。

私の兄の家でイヌを飼い始めたが、初めは世話をするといってねだった二人の子どもも今はしらんかお。

都合のいいときにだっこして楽しんでいるだけで、世話は義姉にまかせっきりだ。

世話といっても兄夫婦は共稼ぎなので昼間は檻の中でお留守番。

しかしイヌだからいいが、もしこれが我が子だったら同じような扱いができるのだろうか。

一人で毎日寂しく待たせておけるのだろうか。

ペットを飼うことは教育上とてもいい効果があるのだろうな、ということはわかっているのだが、ペットの身になると、とても自分の子には飼わせられない

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本屋における本の配置

以前、別の記事で女性コミックの性描写についてちょっと書いた。

そして、気になることとして、子どもが簡単に手が届くところに配置されていることを書いたのだが、先日言った本屋もそうだった。

昔はどぎつい性描写は男性コミックにしか見られなかったが、今では女性の成人向けのコミックもかなりきつい描かれ方をしているものがたくさんある。

それが、男性コミックについては比較的少年向けのものと成人向けのものが分けて置かれているのだが、女性コミックは必ずしもそうではなく、子どもでも知らなければ思わず手にとって開いてしまうような置き方がされているのだ。

私がその本屋で雑誌などを見ていたら、目の前に小学校高学年くらいの女の子がいた。

いかにも真面目そうな子だが、コミックを手にとって、顔は真っ赤に上気し、ちょっと笑っている。

なんか様子が変だと思ったら偶然手にしたのだろうか、成人女性のコミックを読んでいた。

それから私が店内の別のコーナーを一回りし、そこへもどったのだが、その少女はまだ同じような本を見ていた。今度は自分で選んで見ていたのかもしれない。

さりげなく後ろに廻って彼女が読んでいた物をちらりと見たら、かなり激しいセックスシーンだった。

声を掛けようと思ったけれども、恥ずかしくて罪悪感を感じるようになったらかわいそうだと思い、その場はだまっていた。

その代わり、店員の所へ行って、「女性向けのコミックの配置はなんとかならないのか。」と言ってみた。

それを読んでいた少女が、ちょうど自分の姪と同じくらいの年齢だったので余計に人ごとに思えなかった。

その子は、見るからに真面目でおとなしそうな子だ。

真っ赤になった顔を見れば、どれほど興奮していたか、あるいはショックを受けていたかを想像することができる。

親や学校で正しい性教育を受ける前に、あんな形で性についての歪んだ理解をしてしまったら、性についての認識が歪むばかりか、大人、ひどいときには両親への嫌悪感を生む危険もある。

「もしも自分の子、自分の姪がその本屋へ行きたいと言ったら、私はきっと行くな、と言うでしょう。」そんな事も話した。

その時対応してくれた職員は、「店長に伝えます。」といったが、後日再び行ったとき、なにも変わっていなかったので本当にがっかりした。

制作者も販売者もまだまだ、売れることのみ考えて、子ども達の健全な育成を重要課題としてとらえてくれないところが多い。

街に生まれ、街に育つ子どもが多い今、その住環境を私たちやお店を含めた大人達全体でよくしてゆけるような社会になってほしいと思う。

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水だけで落ちる

最近スーパーに行くと、よく「水だけで落ちる」スポンジなどを目にする。

何となくすっきりしない気がして使っていなかったのだが、

試しに一つ買ってみた。

そして早速夕食の洗い物に使ってみたのだが、なるほどこれはよく落ちる。

しかし物によっては、油が強い物などこれだけではすきっとしない感じだが、

それでいけないのか、といわれればそんなことはない。

それを使ってみて、今までなんでもかんでも洗剤に頼りすぎていたなと改めて思った。

使い方として私がやっているのは、

米のとぎ汁を捨てずにおけに入れて置いて、食後軽く下洗いしたらとぎ汁の中に入れておく。

とぎ汁やパスタのゆで汁などは油を浮かす働きがあるそうだ。

そうして後は流水の下でそのスポンジで拭いなから洗うだけ。

もともと環境に良さそうだから買ってみたわけで、実際よいのだが、使ってみて実感したことは、かなり早く炊事が終わることだ。

今まで洗剤→すすぎの2ステップだったのが1ステップで終了だからあっという間だ。

そしてその後は家族で団らんする時間に当てられる。

食後の炊事というのはかったるいものだが、すいすい終わるようになってたかがスポンジだが久々にいい物を買ったと思った。

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祖母の思い出

勤務先の学校で、ごみ拾いの行事があった。

他校と合同で近隣の公園や道路を歩き、ごみを拾い集めるのだ。

それにしても千葉はごみが多い。

空き缶やお菓子の紙、ペットボトル等々・・・・・。

私は常々ごみのポイ捨てほど無責任な行動はないと思っている。

自分の手を離れたごみがその後どう環境、景観に影響するのか、それを掃除し、拾い集める人は誰なのか、全く考え無しの行動である。

これだけごみが多いと、日本人のモラルの低下にがっくりくる。

ごみ拾いは暑い暑い初夏に行われた。

苦労して集めた子どもは今後気軽にゴミ捨てをしたりしないだろう。

しかし、大人が必ずしも子どもの手本にならない例を目の当たりにさせてしまうのは残念だ。

やっぱり健全な心の成長のためには、先を行く大人が尊敬に値し、子どもが魅力的な大人像を描くことが大切だと思う。

これでは大人が子どもに負けてしまう。

子どもは親に、「今日、みんなで道路のごみを拾ったよ。随分ごみを捨てる大人がいるんだなあ、悪いよね。」と聞かせてやるといい。

そして大人は、自分は子どもに対して恥ずかしくないことをしていないか、自分の行動を省みた方がいい。

去年12月、母方の祖母が他界した。

正直私はこの祖母とは折り合いが悪く、なくなるまで関係は悪いままだった。

仏様にこういうのは気が引けるが、今でもあまり好きとは言えない。

しかし、一つ思い出すことがある。

幼い私が祖母と歩いていたとき、私は考え無しにジュースの缶を森に投げた。

祖母は強く怒り、私はその缶を探しに森へはいることになった。

子どもだった私はなぜそこまで厳しくされるのかわからなかった。

けれども今は、そのことだけは祖母に感謝している。

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がんこわい

我が家の家系はがんにならない、と私はずっと思っていた。

実際、とくに母方の親戚は長寿の人が多く、ガンで亡くなった人もあまりいなかった。

ところが、である。

ここ2,3年で、ばたばたとガンになるひとが増えてきた。

12月に他界した祖母もそれが直接の原因ではないがガンを持っていた。

今、祖母の弟が入院している。

叔父もガンを患い、先日手術した所だ。

ガンが死亡率のNO.1であると言うことを実感している今日この頃だ。

世界一の長寿国といわれたのは戦時中を生き抜いたたくましい先輩達のお陰、

今の私たちは生まれたときから化学物質付けでそれほど長生きしないのではないか、と予言をしたひとが昔いた。

実際その通りなのではないか。

ガンに倒れる親戚の姿は、そのまま未来の自分の、そして子どもの姿かもしれないのだ。

私たちは、化学物質について無頓着すぎる。

快適で便利な生活を享受しながら化学調味料や電磁波のリスクからは目を背けようとしている。

自分がいいと思っている物でも実は体に悪い、というものはいくらでもある。

お菓子のお菓子やレトルトの化学調味料、合成着色料は言うに及ばず、子どもが喜ぶウインナーは発色剤、苺ヨーグルトだってプレーンなものに比べれば危ない。できあいのお総菜なら大丈夫かとパックの裏を見れば、添加物の名前がたくさん書いてある。

忙しい毎日、レトルトに頼りたいのはやまやま、料理も下手で買った方が何倍もおいしいのも承知の上だが、なんとか自分の手で作れるように腕を磨かなくては、と最近必死でキッチンに立っている。

素朴な味付けだって案外いけるものだ。

食品のほかにもシャンプー、歯磨き粉、オモチャだって口に入れれば安全とは言えない。

商品を買うときに、原材料がなんなのか、常にチェックする習慣をつけなくてはいけない。

「そんなことを言ったら、何にも食べられないよ。死ぬときは死ぬ。」と豪語してそういう話に耳を傾けない人をよく見かけるが、つらいのはその人だけじゃない。

介護をする家族、残される家族だって同じくらいつらいのだ。そこを考えてほしい。

先日、娘の保育園に行って、担任の先生と話をした。

私はどうしても娘のおやつにスナック菓子を持たせるのは抵抗がある、と話したのだが、園としても人数的に多いため手作りおやつなどはだせないようだった。

後日、たまたま仕事が早く終わり、ちょうどおやつの時間に迎えに行った。

ほかの子がどんなおやつを食べているのかきになり見ていたのだが、食べてるおやつを見て驚いた。

僅か2歳児のおやつがポテトチップだったり、袋のお菓子を食べきれないほど持たされている子もいた。

おやつはまだ胃の小さい子どもが食事で取りきれない栄養分を補給するための物だ。

栄養補給できないばかりか、食品添加物の危険、塩分取りすぎの危険、肥満の危険を子どもに追わせるようなおやつを毎日もたせるとは・・・・。

誰でも子どもを愛している。

愛しているなら、考えてほしい。

知らないなら、知ってほしい。

一番の責任はもちろん親だが、核家族化が進んでいる今の時代、ただあずかるだけでなく、そうした子育ての指針となるようなセンター的役割を保育園も持ってくれたら、と願わないわけではない。

テレビではガン保険のCMが毎日にぎやかだが、保険と同時に、予防の事も真剣に考えた方がいい。

ガンで苦しむ親戚の姿を見て、そんな姿を子どもに見せたくない、また、子どものそんな姿を見たくない、と強く思う。

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いのち

今日のNHK「課外授業ようこそ先輩」は、立松和平さんだった。

後輩たちに教える授業のテーマは「いのち」。

立松さんの授業は見ている私にとっても本当に心に残る授業だった。

前半では、同氏によって書かれた「海のいのち」をみんなで読み、いのちについて考えさせるのだが、そのあとみんなで屋外へ行く。

そして近隣に残る自然を触ったり、口に入れたりして感じるのだが、おもしろかったのはその自然の気持ちを想像させていたところだった。

樹齢700年ほどの木に触れて木の気持ちを行ってみる。その木の根本に寝ころんで視点を変え、木を見上げる蟻の気持ちを想像する。人間を見上げ、踏みつぶされる気持ちも・・・。

それからさらに、自分の出生にまつわる話を家族に聞いてくる宿題が出された。子ども達は何も苦労なくそこに存在しているようだが、それぞれそこに至るまでにすごいドラマがあったことに対して驚く。どれほど望まれて、愛されてこの世に生を受けたかを知ったことの意義は子どもにとってとても大きなものだったことだろう。

似たような活動は小学校の生活科でも行われていると思うが、おもしろかったのはその後、お母さんの気持ちになってお母さんの言葉で作文を書かせたことだ。前日に蟻の気持ちになった体験が生かされる。

命の尊さに触れることは、相手の命も同様に尊ぶことだ。視点を変える、という経験は、子ども達にとって、今まで見ていた世界が全く違った世界に見える体験だったに違いない。

折しも、収録中に氏のお母様がお倒れになり、彼もお母様の立場になって息子への手紙を綴った。涙ながらにそれを読む様子を見て、私も涙した。

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