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あいづち

日本人は相づちがとても多い、と言う話はよく聞く。

会って話しているときはもちろんだが、電話でも休みなくずっと相づちをうち続けている。

反対に外国人と電話で話すと、相手はいつまでも黙って何も言ってくれないので、しまいには不安になって、「ねえ、聞いてるの?」と思わず言いたくなってしまう。

しかし、この相づちが日本語のいいところであり、相手との対話を円滑にしていることは間違いない。

電話の例でもわかるように、相づちは「私はあなたの話をきいてるよ。」という意思表示だ。

話し手は、聞き手が自分に興味を持ってくれていることがわかると、安心してたくさん話すことができる。

私は、オーストラリアの英語学校で、大好きな先生がいた。名前はリズ。彼女はとても厳しいと評判の人だったが、実によく話を聞いてくれる人だった。

慣れない英語で自分の意見を話したりするのはとても緊張することだったけれども、リズの授業の時だけは彼女がとても興味深い顔で私の話に聞き入ってくれ、私も安心してもっと話したい気にさせられたものだった。

そんな彼女の授業でおもしろかったのものに「あいづち」の授業があった。

A-ha

Really?

Did you?

Tell me more

などなど、たくさんのあいづちのしかたを教えてもらった後、二人ペアになって昨日の出来事を話す。聞き手はたくさんのあいづちを連発して相手になるべくたくさんのことを話させる、というものだった。

単純な昨日の出来事の話でも、すぐに相手が Oh ! Really ! などと反応してくれるのがおもしろく、いつもよりずっと話が弾んだ充実感で授業を終えることができた。 

今、自分の子どもと話しているとき、時々あのときのことを思い出すことがある。

相づちが得意な日本人は、たくさんのあいづちのパターンをもっているはずだ。

うそ!ホント?そうなの?へえ。それからどうしたの?大変だったねえ。ふーん。しんじらんなーい!

今日保育園であったこと、テレビのこと、すきな食べ物のこと、行きたいところ、歌のこと、大好きなミッキーやプーさんのこと・・・・・・。

なんでもいいから子どもが話し出したら、自分もその話にとても興味がある、という意思表示をあいづちを連発することでする。

子どもは自分が注目されているとやはり喜ぶ。どんどん何でも話してくれるようになる。

子どもは鋭いので、片手間に相づちを打っているのをすぐに見抜く。実際には忙しいので、台所仕事をしながら片手間に相づちを打ってしまうこともあるが、なるべくそれをしないように頑張っている。

日本の子どもは、小さいときは話したくて話したくて仕方がないのだが、大きくなるに従って自己を表現するのがだんだん苦手になってしまう。

いい発想やセンスをしている子どもでも、それを表に出すのは苦手な子が多い。それはとてももったいないことで、おおげさだけど、そんな子ども達が安心して自分を表に出すことが出来るためには、あいづちが果たせる役割は大きいのではないかとおもう。

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本屋における本の配置

以前、別の記事で女性コミックの性描写についてちょっと書いた。

そして、気になることとして、子どもが簡単に手が届くところに配置されていることを書いたのだが、先日言った本屋もそうだった。

昔はどぎつい性描写は男性コミックにしか見られなかったが、今では女性の成人向けのコミックもかなりきつい描かれ方をしているものがたくさんある。

それが、男性コミックについては比較的少年向けのものと成人向けのものが分けて置かれているのだが、女性コミックは必ずしもそうではなく、子どもでも知らなければ思わず手にとって開いてしまうような置き方がされているのだ。

私がその本屋で雑誌などを見ていたら、目の前に小学校高学年くらいの女の子がいた。

いかにも真面目そうな子だが、コミックを手にとって、顔は真っ赤に上気し、ちょっと笑っている。

なんか様子が変だと思ったら偶然手にしたのだろうか、成人女性のコミックを読んでいた。

それから私が店内の別のコーナーを一回りし、そこへもどったのだが、その少女はまだ同じような本を見ていた。今度は自分で選んで見ていたのかもしれない。

さりげなく後ろに廻って彼女が読んでいた物をちらりと見たら、かなり激しいセックスシーンだった。

声を掛けようと思ったけれども、恥ずかしくて罪悪感を感じるようになったらかわいそうだと思い、その場はだまっていた。

その代わり、店員の所へ行って、「女性向けのコミックの配置はなんとかならないのか。」と言ってみた。

それを読んでいた少女が、ちょうど自分の姪と同じくらいの年齢だったので余計に人ごとに思えなかった。

その子は、見るからに真面目でおとなしそうな子だ。

真っ赤になった顔を見れば、どれほど興奮していたか、あるいはショックを受けていたかを想像することができる。

親や学校で正しい性教育を受ける前に、あんな形で性についての歪んだ理解をしてしまったら、性についての認識が歪むばかりか、大人、ひどいときには両親への嫌悪感を生む危険もある。

「もしも自分の子、自分の姪がその本屋へ行きたいと言ったら、私はきっと行くな、と言うでしょう。」そんな事も話した。

その時対応してくれた職員は、「店長に伝えます。」といったが、後日再び行ったとき、なにも変わっていなかったので本当にがっかりした。

制作者も販売者もまだまだ、売れることのみ考えて、子ども達の健全な育成を重要課題としてとらえてくれないところが多い。

街に生まれ、街に育つ子どもが多い今、その住環境を私たちやお店を含めた大人達全体でよくしてゆけるような社会になってほしいと思う。

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水だけで落ちる

最近スーパーに行くと、よく「水だけで落ちる」スポンジなどを目にする。

何となくすっきりしない気がして使っていなかったのだが、

試しに一つ買ってみた。

そして早速夕食の洗い物に使ってみたのだが、なるほどこれはよく落ちる。

しかし物によっては、油が強い物などこれだけではすきっとしない感じだが、

それでいけないのか、といわれればそんなことはない。

それを使ってみて、今までなんでもかんでも洗剤に頼りすぎていたなと改めて思った。

使い方として私がやっているのは、

米のとぎ汁を捨てずにおけに入れて置いて、食後軽く下洗いしたらとぎ汁の中に入れておく。

とぎ汁やパスタのゆで汁などは油を浮かす働きがあるそうだ。

そうして後は流水の下でそのスポンジで拭いなから洗うだけ。

もともと環境に良さそうだから買ってみたわけで、実際よいのだが、使ってみて実感したことは、かなり早く炊事が終わることだ。

今まで洗剤→すすぎの2ステップだったのが1ステップで終了だからあっという間だ。

そしてその後は家族で団らんする時間に当てられる。

食後の炊事というのはかったるいものだが、すいすい終わるようになってたかがスポンジだが久々にいい物を買ったと思った。

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祖母の思い出

勤務先の学校で、ごみ拾いの行事があった。

他校と合同で近隣の公園や道路を歩き、ごみを拾い集めるのだ。

それにしても千葉はごみが多い。

空き缶やお菓子の紙、ペットボトル等々・・・・・。

私は常々ごみのポイ捨てほど無責任な行動はないと思っている。

自分の手を離れたごみがその後どう環境、景観に影響するのか、それを掃除し、拾い集める人は誰なのか、全く考え無しの行動である。

これだけごみが多いと、日本人のモラルの低下にがっくりくる。

ごみ拾いは暑い暑い初夏に行われた。

苦労して集めた子どもは今後気軽にゴミ捨てをしたりしないだろう。

しかし、大人が必ずしも子どもの手本にならない例を目の当たりにさせてしまうのは残念だ。

やっぱり健全な心の成長のためには、先を行く大人が尊敬に値し、子どもが魅力的な大人像を描くことが大切だと思う。

これでは大人が子どもに負けてしまう。

子どもは親に、「今日、みんなで道路のごみを拾ったよ。随分ごみを捨てる大人がいるんだなあ、悪いよね。」と聞かせてやるといい。

そして大人は、自分は子どもに対して恥ずかしくないことをしていないか、自分の行動を省みた方がいい。

去年12月、母方の祖母が他界した。

正直私はこの祖母とは折り合いが悪く、なくなるまで関係は悪いままだった。

仏様にこういうのは気が引けるが、今でもあまり好きとは言えない。

しかし、一つ思い出すことがある。

幼い私が祖母と歩いていたとき、私は考え無しにジュースの缶を森に投げた。

祖母は強く怒り、私はその缶を探しに森へはいることになった。

子どもだった私はなぜそこまで厳しくされるのかわからなかった。

けれども今は、そのことだけは祖母に感謝している。

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がんこわい

我が家の家系はがんにならない、と私はずっと思っていた。

実際、とくに母方の親戚は長寿の人が多く、ガンで亡くなった人もあまりいなかった。

ところが、である。

ここ2,3年で、ばたばたとガンになるひとが増えてきた。

12月に他界した祖母もそれが直接の原因ではないがガンを持っていた。

今、祖母の弟が入院している。

叔父もガンを患い、先日手術した所だ。

ガンが死亡率のNO.1であると言うことを実感している今日この頃だ。

世界一の長寿国といわれたのは戦時中を生き抜いたたくましい先輩達のお陰、

今の私たちは生まれたときから化学物質付けでそれほど長生きしないのではないか、と予言をしたひとが昔いた。

実際その通りなのではないか。

ガンに倒れる親戚の姿は、そのまま未来の自分の、そして子どもの姿かもしれないのだ。

私たちは、化学物質について無頓着すぎる。

快適で便利な生活を享受しながら化学調味料や電磁波のリスクからは目を背けようとしている。

自分がいいと思っている物でも実は体に悪い、というものはいくらでもある。

お菓子のお菓子やレトルトの化学調味料、合成着色料は言うに及ばず、子どもが喜ぶウインナーは発色剤、苺ヨーグルトだってプレーンなものに比べれば危ない。できあいのお総菜なら大丈夫かとパックの裏を見れば、添加物の名前がたくさん書いてある。

忙しい毎日、レトルトに頼りたいのはやまやま、料理も下手で買った方が何倍もおいしいのも承知の上だが、なんとか自分の手で作れるように腕を磨かなくては、と最近必死でキッチンに立っている。

素朴な味付けだって案外いけるものだ。

食品のほかにもシャンプー、歯磨き粉、オモチャだって口に入れれば安全とは言えない。

商品を買うときに、原材料がなんなのか、常にチェックする習慣をつけなくてはいけない。

「そんなことを言ったら、何にも食べられないよ。死ぬときは死ぬ。」と豪語してそういう話に耳を傾けない人をよく見かけるが、つらいのはその人だけじゃない。

介護をする家族、残される家族だって同じくらいつらいのだ。そこを考えてほしい。

先日、娘の保育園に行って、担任の先生と話をした。

私はどうしても娘のおやつにスナック菓子を持たせるのは抵抗がある、と話したのだが、園としても人数的に多いため手作りおやつなどはだせないようだった。

後日、たまたま仕事が早く終わり、ちょうどおやつの時間に迎えに行った。

ほかの子がどんなおやつを食べているのかきになり見ていたのだが、食べてるおやつを見て驚いた。

僅か2歳児のおやつがポテトチップだったり、袋のお菓子を食べきれないほど持たされている子もいた。

おやつはまだ胃の小さい子どもが食事で取りきれない栄養分を補給するための物だ。

栄養補給できないばかりか、食品添加物の危険、塩分取りすぎの危険、肥満の危険を子どもに追わせるようなおやつを毎日もたせるとは・・・・。

誰でも子どもを愛している。

愛しているなら、考えてほしい。

知らないなら、知ってほしい。

一番の責任はもちろん親だが、核家族化が進んでいる今の時代、ただあずかるだけでなく、そうした子育ての指針となるようなセンター的役割を保育園も持ってくれたら、と願わないわけではない。

テレビではガン保険のCMが毎日にぎやかだが、保険と同時に、予防の事も真剣に考えた方がいい。

ガンで苦しむ親戚の姿を見て、そんな姿を子どもに見せたくない、また、子どものそんな姿を見たくない、と強く思う。

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いのち

今日のNHK「課外授業ようこそ先輩」は、立松和平さんだった。

後輩たちに教える授業のテーマは「いのち」。

立松さんの授業は見ている私にとっても本当に心に残る授業だった。

前半では、同氏によって書かれた「海のいのち」をみんなで読み、いのちについて考えさせるのだが、そのあとみんなで屋外へ行く。

そして近隣に残る自然を触ったり、口に入れたりして感じるのだが、おもしろかったのはその自然の気持ちを想像させていたところだった。

樹齢700年ほどの木に触れて木の気持ちを行ってみる。その木の根本に寝ころんで視点を変え、木を見上げる蟻の気持ちを想像する。人間を見上げ、踏みつぶされる気持ちも・・・。

それからさらに、自分の出生にまつわる話を家族に聞いてくる宿題が出された。子ども達は何も苦労なくそこに存在しているようだが、それぞれそこに至るまでにすごいドラマがあったことに対して驚く。どれほど望まれて、愛されてこの世に生を受けたかを知ったことの意義は子どもにとってとても大きなものだったことだろう。

似たような活動は小学校の生活科でも行われていると思うが、おもしろかったのはその後、お母さんの気持ちになってお母さんの言葉で作文を書かせたことだ。前日に蟻の気持ちになった体験が生かされる。

命の尊さに触れることは、相手の命も同様に尊ぶことだ。視点を変える、という経験は、子ども達にとって、今まで見ていた世界が全く違った世界に見える体験だったに違いない。

折しも、収録中に氏のお母様がお倒れになり、彼もお母様の立場になって息子への手紙を綴った。涙ながらにそれを読む様子を見て、私も涙した。

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はじめての包丁

私は料理が苦手だ。
自分一人なら何を食べてもいいが、子供がいるとなると栄養のバランスなども気をつけなくてはならないため、毎日の食事の支度は本当に頭が痛い。

私が子供のころは両親のほかに祖父母とも同居していた。母は専業主婦、祖母も、時には父も台所に立つ人だったので、自分が料理をする、という機会には恵まれなかった。いざやってみようとしても母が心配して付きっきりでご指導くださるため、それをうっとおしく感じていつしか作ってみることすらしなくなってしまった。

両親が出かけるときは、必要なだけの冷凍食品やカップラーメンなどを買ってストックして置いてくれた。

そんな感じだったから料理にはかなりコンプレックスをもっていた。職場には、料理の話題になると、すぐに私の名前をだすひともいてくやしかった。料理が出来るのがそんなに偉いのか!私は英語も話せるしスポーツもできる。でも一度だって他の人に「あなたそれくらい話せないとね。」なんて言ったことはない。でも、なんだって料理が出来ないと笑われないといけないのか。そんな風に思っていた。

テレビ番組で、通りすがりの女の子に料理をさせてその出来なさ加減を笑う、というコーナーがあるが、あんな物は大嫌いだ。そもそも、なぜ女の子ばかりが対象なのか?また、その子が何も出来ないのは家庭、環境にも原因があるのだ。あれを見ていると、まるで自分が笑われているような感じがする。

私が料理をするようになったのはなんと30を過ぎてからのことだ。オーストラリアに留学して、一人で生活していたため、さすがに毎日外食、というわけには行かなくなったのだ。

しかし、実際にやってみると、なんだ、こんな事を私は難しく考えていたのか。という感じだった。凝った料理は未だにできないが、シンプルな調理法だってかえっておいしくいただけるものだ。同じアパートにいた韓国人達は、「えくぼは料理がうまいなあ」なんて言っていた。私はこっちに来るまでろくに包丁を持ったことがなかった事はもちろん内緒にしていた。

そんなこんなで料理に苦労した私は、娘には料理が出来るようになってほしい、と思っている。
食は生活の基本だ。料理を通して食材を知ることもできる。手を掛けることで感謝の気持ちも生まれる。最近では、頭も良くなると言われている。そして何より、娘と台所に立つと、苦手な料理も楽しく感じるのだ。

早いかな、と思ったが娘に子ども用の包丁とまな板をプレゼントした。おままごとでしか扱ったことのない包丁を不器用に持つ姿は危なっかしくてひやひやするが、ぎこちない手つきで胡瓜を切っている。幼児でも、ピーラーで皮をむく、卵を混ぜる、ごまをかける、など出来ることはいろいろある。

一番嬉しいのは、「私が作ったの」といって野菜をもりもり食べるようになったことだ。時間がないとつい自分でやった方が早い、となってしまうこともあるが忙しいからこそ、料理の時間もコミュニケーションの大事なひとときにしたい。娘に料理を手伝わせるといいことがたくさん。これは是非続けて行きたいと思う。

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後世に伝えること

子供を持って思うことがある。

私がこの子にしてあげるべき事はなんなのだろうか、ということだ。

親として、人間として、十分な教育をしてあげることだろうか。

何不自由ないようにお金を残すことだろうか。

心に残る体験をたくさん一緒にしてあげることだろうか。

子供の心が満たされるように十二分に愛してあげることだろうか。

どれも子供を思う親ならばしてあげたいと思って当然のことばかりだ。

しかし、親としてまず第一に考えなければならないことは、子供が自分で生活できるようにしてあげることではないかと思うのだ。

自然界に目を向けてみれば、全ての親は子供に餌の取り方を教えてから子離れする。

なのに人間は、家事の仕方がわからない、子供の育て方がわからない、お金の管理の仕方がわからない、そんな状態で子供に家庭を持たせてしまう人が多いのではないだろうか。

これは人ごとではない。自分のことだ。

若いときは随分自由にさせてもらって、お陰で私は仕事や趣味に没頭できた。

しかし、そこそこの年になり家庭をもって独立してみると、

自分は家庭を維持することについて何も知らなかったことを実感したのだ。

今も見よう見まねで失敗を繰り返しながら学んでいる最中。

それでも今更誰にも聞けない初歩的な事がわからないこともある。

(たとえば、料理したことのない食材を人からもらってしまったときなど・・・・・。)

これは学校で教えてくれる事ではない。

学校でも家庭科は学んだはずだが、あの内容を生活していく中で思い出している人は殆どいないのではないだろうか。

なぜなら、家庭生活は毎日毎日の実践の積み重ねに他ならなく、週に何度かの授業でカバーしきれないのは当然の事だ。

家庭や育児についてよく知らずに楽観的な見通しを持ったまま家庭を持ってしまうと、自分の考えと実際の生活の大変さとのギャップに身も心も疲れてしまう。

家事や育児に関わる問題はそんな所からきているのではないかと考えることもできる。

一昔前の人は誰でも出来たことが、今の人は出来ない。

そんなことはいくらでもある。

日本もかつては非常に貧しく苦しい時代があり、その頃の日本に生きた方たちは自分の子供にはこんな苦労はさせたくないと、苦労をさせないことが愛情の証だったのかもしれない。

しかし、それを繰り返すと家庭を作れないのに家庭を持ってしまっている人が増えてしまう。状況が悪くなることはあっても、良くなることはない。

子供の自立を助けるのは家庭の役割である。

子供がだらしないと親が笑われる、と昔はよく言われたものである。

そうは行っても何をするにも自分でやってしまった方が早いという方もいるだろう。しかし幸い今は便利な家電がたくさんあるので、時間短縮出来た分を子供に当てれば良い。子供とのコミュニケーションにもなる。

自分がしてきたことは全て与えるくらいの気持ちで子供に伝えることができるなら、その子供はそれプラス自らが得た新しい知識と技能を後世につたえられるだろう。そうして人類はどんどん賢くなっていった、という風になってほしい。

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