花粉症って治るの?

私の花粉症歴は20年。

子どもの頃は一番好きな季節だった春も、今となっては早く過ぎてほしい季節に他ならない。

眼鏡、マスクはもちろん、通院したこともあるし、漢方薬、点鼻薬、目薬、乳酸菌、甜茶、シソ、良さそうなものは本当にいろいろやってみた。それを一本打てば1シーズン大丈夫、という注射を打ってみたこともある。

そんな年季の入った私の花粉症であるが、ここ数年、完全にではないが、劇的に症状が軽減しているのだ。

確かに、以前は花粉症についての知識がまるでなく、非常に無防備であった、ということもある。今は、2月半ば頃から洗濯物も布団も部屋干し、寝室には空気清浄器を設置している。

けれども、自分自身、どこが転機だったかと考えたら、妊娠、出産だったと思うのだ。そして私はずっと、「子どもを産むと体質変わるって聞いたことあるけど、きっとそのせいなんだな」と思っていた。

ところが昨日、なにげなく Yahoo を見ていたら、「Yahoo 知恵袋」というところに、「花粉症は治るの?」というトピックが出ていた。そしてそれに対してみんなが回答を投稿するのだが、ベストアンサーに選ばれていた回答は非常に興味深かった。

ひどい花粉症に悩まされていた人が、食生活を見直し、改善したところ、ほとんど症状がなくなった、というのである。基本は「マゴハヤサシイ」だそうだ。

私はそれか!と納得してしまった。妊娠、出産が直接的な転機ではなかった。花粉症のことは何も考えていなかったが、私も子どもができたのを機に、食生活にすごく気を遣うようになっていたのだ。

今まで平気で食べていた食品添加物だらけの食べ物をほとんど食べなくなり、買い物をするときは必ず原材料をチェックするようになった。

そして、「らでぃっしゅぼーや」という安全な食材の宅配を始めた。「らでぃっしゅぼーや」は毎週一箱おまかせで種々の野菜や果物が届くシステムになっているのだが、その野菜は一生懸命に食べないと食べきれない位の量で、破棄するのがもったいないから結果的に外食をあまりしなくなった。以前は朝はパンとコーヒーだけ、なんていう日もあったが、今はとにかく食べきりたいのでがんばって何かしら作っている。おまかせ野菜の中には初めて買うような珍しい野菜も時々あり、「どうやって使うのかな?」と調べたりすることでレパートリーも自然に増えてきた。

宅配はけっこう割高なので、始めた頃は月々の食費が非常に心配だった。しかし、結果的には宅配でほとんどまかなえるため、あまりスーパーに行かなくなって、食費が減っていたのである。なぜなら、スーパーというところは非常に魅力的で、行けばついつい余計なものを買っているからだ。

ちょっと話がそれてしまったが、子どもがきっかけで食の安全につとめるようにしてきたわけだが、結果的には自分自身が花粉症の軽減という大きなプレゼントをもらっていたことになる。

餃子の事件などあり、世間的にも食についての意識が高まっているところであると思うが、食事は本当に命を作る基本中の基本であり、自分の体の中に入れるものには自分で責任をとらないといけないんだな、と改めて考えされられた。

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地球環境と国民意識

昨日、古館伊知郎さんの「地球危機2008」を見た。見た、といっても運転中だったので音声だけで。環境については日頃から考えているつもりの自分でも、すごく考えさせられた。自分に何ができるんだろう、たいしたことはできない。でも何かしなければ・・・。

地球危機2008ホームページ

自分たちの何気ない暮らしぶりで、痛めつけられている地球の現状。胸が締め付けられるような思いがした。

あの番組を見た人はどのくらいいるんだろう。だいたい、どうして正月番組はこんなにもお笑いが多いのだろう。笑っていられる時期はとうに過ぎている。新しい年になる、ということは、地球に残された時間がまた少なくなった、ということなのに。

昨年は、「そんなの関係ない」と連呼する芸人が非常にもてはやされた。子ども達は、そのフレーズを耳にするだけで大喜びし、自分もまねしてみせる。しかし、それは、自分に都合の悪いことは見たくない、聞きたくない、という今の人たちの気持ちをピタッと表現したギャグであったからこそ受け入れられたのではないだろうか。

テレビ番組は言うまでもなく時代を反映する。昨今のお笑いブームは、世相が暗いことを逆に反映しているのだと私は思っている。ニュースを見れば、政治も社会も気持ちが暗くなるような話題ばかり。子ども達は希望を失い、学校も荒れている。心身ともに疲労して家へ帰ってくれば、あとは何も考えずに笑っていられるバラエティ番組でも見てリラックスしたいと思うだろう。

でもその考えはとても危険だ。温暖化の影響は、随分前から知識としては知っていた。でも実感が沸かなかったというのが正直なところだ。しかし、温暖化問題は、もはや人ごとではないことを昨日の番組でも思い知らされた。

藤子F不二雄さんのSF漫画に、「予言者」という短編がある。よく当たる、といわれている予言者が、恐ろしく怯えているので、人々はどんな未来が分かったのか尋ねるのだが、予言者が恐ろしがっていたのは恐ろしい未来が見えたからではなく、新聞や報道で人類の未来はとうに分かっているのに、何も気にせず、自分のこととしてとらえられない人々のありようだった、という話だ。

未来は変えられないのだろうか。もし、神が存在するとしたら、今私たちは最大の宿題を与えられてるのだとおもう。みんなで力を合わせれば、この危機を乗り越えることができると信じたい。一人から、でも、一人ではできない。この危機に立ち向かうことを通して、ばらばらになってしまっている人々の気持ちがもう一度一つになることを願う。

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ギンギラクリスマス

クリスマスも終わって、今年も残すところあと2日。

うちもやっとクリスマスツリーを片付けおえたところだ。

それでも我が家はツリーと、子どもと一緒につくったリースがいくつかなので片付けといってもたいしたことないが、家の周りじゅうをイルミネーションで飾ってしまっているお宅はさぞかし大変だろうと思う。

ここ近年、この季節になるとお庭じゅうをギンギラギンにしているお宅が増えた。我が家のご近所でも流行中のようだ。

ちょっぴりアクセントとして楽しむ程度であればほほえましいが、どうしてそこまでするんだろう、という家もかなりある。町の一角が、どの家もギラギラピカピカしていて、舞浜まで行かなくてもエレクトリカルパレードみたいになってしまっているところもある。

10年前くらいに、初めてギンギラのお宅を発見(まさに発見!)したときには本当に驚いて、わざわざ車に乗って友達にも見せたりしていた。でも、今はけっこう普通の光景だ。当時は珍しくて、きれいだな~、と見る方もはしゃいでいたが、でもそれって本当に美しいんだろうか、って最近は思う。

よそのお宅の懐具合をとやかく言って申し訳ないが、かなりの電気代がかかっている、とテレビで言っていた。屋外の電気のために、家の中では極力電気を使わずに薄暗い中で生活している人もいると聞いている。

近所でエレクトリカルパレード状態にしてしまっているところは、はじめは少しだったのにだんだんエスカレートして、近所どうしで無言で張り合っていたり、または反対に自分のところだけやめづらい状況になってしまっているところもあるらしい。

まあ、そこまでは個人の自由なのでほうっておいてくれ、といわれてしまえばそれまでだが、今回どうしても書きたかったのは、その電飾を見るたびに、やっぱり地球の温暖化って、頭では分かっているけど、個人として何かしなくちゃいけない、というレベルではないのかな、というところにすごい危機感を感じるからだ。

もう、お金があるからどれだけ電気を使ってもいい、という時代ではないのだ。東京タワーだって節電してライトアップを制限している。エコの問題に直面したとき、物質的な豊かさを象徴する電飾のきらびやかさは美しいと素直に感じられないものになってしまった。

何年か前、チェコ人の友人が、クリスマスは国に帰りたい、国のクリスマスはそれは美しい、と話していた。どんなクリスマスか聞いたら、各家庭が窓辺にガラス製のオーナメントなどを飾り、ろうそくの火を灯す、といっていた。想像しただけでこころにも日がともるような、あたたかいクリスマスだ。

クリスマスではないが、日を近くして100万人のキャンドル・ナイトという素敵な取り組みもある。うちは子どもが小さく、電気を消す、といったら怖がったのでまだやったことはないが、ろうそくの炎を囲んで世界平和を思い、家族の絆も確かめ合えるようなこのイベントがもっともっと広がっていくといいな、と思っている。

うちの子は私の意見にいつも同調しているので、私がギンギラの家を見て、「ちょっとあれはやり過ぎだよね~」というと「そうだよね~。やり過ぎやり過ぎ。」といっている。でもやっぱり、「ねーねー、やりすぎのうちちょっと見たいな~。」というのが本音らしく、それはそれで子どもらしくてまあ、いいか。と文句をいいながらやり過ぎの家を見に行ったりした今年のクリスマスだった。

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我が家のプリキュア論争

もうすぐクリスマス。

子ども達へのプレゼントと何にしようかあれこれ悩むのは、毎年面倒くさいけれども、子どもの喜ぶ顔を想像しながらのおもちゃ屋さん巡りは楽しいことでもある。

そんな中、娘に何をプレゼントするかということで我が家でちょっとした論争があった。

それは、私の母(娘にとっては祖母)が娘になにがほしいか尋ねたときのこと。娘は「プリキュアの自転車がほしい。」といったのだった。

実は、プリキュアは私が今一番娘に見せたくないアニメの一つ。

理由は過去の記事でも書いたが、第一に女の子が見るアニメとしてしょっちゅう敵と戦うようなストーリーはふさわしくないと思うこと、第二に、明らかに子どもの購買意欲をかき立てるようなグッズが続々と出てきて、一般の子どもも親もそれに乗せられてしまうような仕掛けが見え見えであることなどである。アニメをみると一見美しい友情などを謳ったりもしているが、結局は自分と立場の違うものは攻撃しようという考え方で、そんなものを幼い頃から肯定するようになってしまったら恐ろしいと思う。

幼い頃に見たアニメは、その子どもの人格の形成に影響を及ぼすので、私は娘に放映時間を知らせていないし、日曜日のその時間は何が別のことをして遊んだりビデオを見せたりして娘がテレビをつけないように必死でごまかしている。

それでも保育園ではどの子もプリキュアが大好きで、娘もその影響を受けているようだ。

すぐさま買ってあげる、という母。ストップをかける私。

私の主張は、母もよく分かってくれるが、みんなが持っているのにうちの娘だけ持っていないのはかわいそう、だという。私の娘だけががまんしてもアニメ界を変えられる訳じゃなし、だったら好きにさせてやればいいじゃないかと。

そうかもしれない。でも、そんな小さな一歩がだんだん大きくなって世の中が変わるんだと私は信じたい。

昔は有機栽培の野菜、無添加の化粧品など、一部のこだわりのある人のみが使っていたものも、だんだんその良さが認められて今では割とどこでも手にはいるようになってきた。

そんな風に、売るがためにテレビアニメを利用し、目新しいものをどんどん製造する会社のものを消費者が選ばないこと。

白黒つけやすくて単純な戦いのシーンより、本当に心を育むようなストーリーのアニメを視聴者が選ぶこと。

小さな働きかけでも、小さな力だからとあきらめてしまっては、何も変わらないと思う。

幼心に、娘は私と母のただならぬ言い合いになんとかしなくては、と思ったらしく、「プリキュアじゃなくてプリンセス(ディズニーの)にする。」と言ってきた。それでとりあえず一件落着。私も胸をなで下ろした。

もう一つ、プリキュアをはじめとする美少女アニメは、一通りのグッズを買わせたらアニメに新しいグッズが登場するか、最終回になって新シリーズが始まることになっている。今年買った自転車は、来年には「新しいのがほしい~。」ってことになるはずだ。ものを大事にする心を育てるのは難しい。

ディズニープリンセスなら、昔も今もずっと愛されてるので、長く乗ってくれると思う。

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目を見よう

 最近、子ども達と目が合わない。放課後クラスの子どもの下校指導をした帰り、帰宅する子ども達の流れに逆行して「さよなら」「さよなら」と声をかけても、返事をしてくれない子どもも多い。私も教師といえども人間なので、声をかけてもかけてもずっと返事が返ってこないと気分が沈んでしまう。あまりに疲れているときなどは、さらにぐったり疲れてしまう気がして、子どもが通らない道をわざわざ選んで学校まで帰るときもある。

 子ども達が意地悪で無視しているわけではない。様子を見ていると、声をかけられたときにこちらを見ない子どもが多いのだ。当然、きこえているけれども、そっちを見る習慣がないため「あれ?なんか声かけられたな。僕にいってるのかな?」ということになる。確認する間もなくすれ違ってしまう、という繰り返しのようだ。

 子ども達は全体的に誰かが話していてもそちらに顔を向けるということができていない。これは学校というよりは家庭生活の変化だと思うのだ。

 我が家も含めてリビングの主役はもはや人ではなく、テレビになっている。家族が集っていても、顔はテレビに向けたまま、互いの顔を見ずに会話をしている。テレビを見ていないときでも、お母さんは忙しくて台所に立ったまま、お父さんもパソコンの前に座ったまま、子どもの話を子どもの顔を見ずに聞いていることが多いのではないだろうか。

 私は急に自分の子が心配になって、食事の時にテレビを消した。仕事をしながらではなく、ちょっと手をとめて話を聞くように心がけている。とはいえ忙しい中、なかなか子どもの話に全部つきあうわけにいかないこともある。テレビか何かで見たのだが、子どもが「ねえ、ねえ」、と話をきりだした時にちょっと手を止めて、子どもの話に関心を持っている、ということを態度で伝えれば、その後は仕事をしながら返事をしても大丈夫だそうだ。私はそんなやりかたでやっている。

 学校では、定期的にあいさつ運動をおこなっている。挨拶はかたちではない。本当に心がこもったとき、自然に相手の方に目が向けられるものだと思う。まだまだ挨拶を気持ちよくできる子は少ないけれども、私もあきらめず、元気な日には子ども達に挨拶をしながら学校へ帰るようにしよう。

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オーストラリア

子どもを連れてオーストラリアに行ってきた。円安でオーストラリア旅行の人気が下がってきてきているところだったので、オフシーズンとはいえ結構お金がかかってしまったが、初めての飛行機や外国に大興奮する姿を見て、連れてきてよかったな、と思った。

私の友人は、子どもの頃、特にお金持ちであった訳ではなかったが時々海外旅行へと連れて行ってもらっていたという。ご両親は子育てに対し本当にしっかりした考えをお持ちで、海外に連れて行っていろいろな文化に触れるという体験をすることが大事で、そのために日頃は貧乏してても全然かまわない、とおっしゃっていたそうだ。友人のその話がずっと心に残っていて、私も娘にはそうしてあげたいと思っている。

娘はもうすぐ4歳だが、あちこち長い距離を歩くのはまだ体力的に無理があり、外出時はベビーカーを利用していた。ベビーカーを押しながらの旅行は大変かと思ったが、全然そんなことはなかった。

なぜならば、駅の階段を上るときも、バスや電車に乗るときも、必ず誰かが声をかけてくれ、一緒にベビーカーを持ち上げてくれたからだ。

時には、私が階段を下りようとしたときに、階段下から「そこで待ってて。」と声をかけられ、わざわざ自分とは反対方向なのにベビーカーを運んでくれた人もいた。

日本にももちろん手を貸してくれる人はいる。でもそれは一部の本当に親切な人だけだ。オーストラリアでは、ほとんど毎回、と言っていいほど、しかもちょっと今時のお兄ちゃん風の人まで気さくに声をかけてくれたのに本当に驚いた。それでいて、たいしたことじゃないよ、といわんばかりに自然に手を貸して颯爽と去っていく。そんなのを体験してしまうと、ああ、つくづく、日本人って冷たいなああ。と思ってしまう。

いくら道徳の授業で「困っている人には親切にしましょう」なんて習っても、全然身についていないってことになる。または、知らない人に親切にしたら「余計なお世話」なんていわれるんじゃないかと思ってせっかくの親切をしないままでいる。全然意味ないのだ。

人に親切にされれば、よほどひねくれた人でない限り誰でもうれしいものだ。もっともっとさりげない親切が当たり前になるような暖かい社会になってほしいと思う。

オーストラリアの人はとっても子どもが好きらしく、どこへ行っても話しかけられ、どこへ行っても人の親切を感じることができた。子どもを連れて行ったことで思わぬ楽しい思い出をたくさん作ることができた。娘に感謝である。

ちなみに、私自身、人生で一番はじめの記憶は4歳の時からだ。母が洗濯をして、私は甘食を食べながら当時の子ども番組「ロンパールーム」を見ていた映像を思い出すことができる。なぜ4歳かわかるかというと、近所のおばさんがきて、「あら、かわいい、いくつになったの?」「4歳。」と言ったことを覚えているからだ。それで、この旅行も、娘はずっとおぼえててくれるかな、という期待を込めて今年行くことにした。節約してがんばって行った海外だから、ずっとおぼえててほしいな。

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運動会も変わった・・・

4月から新しい学校に赴任になった。

普通の小学校は久々だったのだが、子ども達はやはりかわいく、子どもらしい感じがした。

しかし、「あれ?子どもの様子が随分ちがうな」と思ったのは、先日行われた運動会の練習の際だった。

子ども達は、個人種目、団体種目、ダンスなど、どの学年もだいたい3種目くらいに出場し、そのための練習が毎日行われていた。

その様子を見ていると、とにかくみんな先生の話が聞けないので驚いた。

入場の手順やゲームの説明、ダンスの振り付けなど、先生たちが一生懸命に説明されているのに、まるで自分には関係ないかのように友達と話し始める。

当然わからず、何度もやり直しをさせられて文句を言っている。

聞いていればすぐすむんだけどな・・・ということにいつまでも気づかない。

子ども達に悪気がある様子もないのだが、

ここはビシッとやろう、とか、上手にできることがうれしい、という雰囲気はあまり感じられなかった。

小学校の先生達も、「昔はビシッとできないと何回もやり直しをさせたりしてたんだけど、今はそういうことを求めないんだよね。楽しい運動会をしましょう、っていう感じに変わってきているから・・・・」とおっしゃっていた。

でも、私はこの練習風景をみてなんか怖いものを感じてしまった。

小学校のころ、「体育って何のためにするの?」という児童の問いに、

先生は「健康のため、そして自分の身を守るためだ」と教えてくださった。

この子ども達は、こんなに人の話が聞けなくて、周りの様子を見て判断して行動できなくて、もしも災害などが起きたら無事に避難できるのだろうか?

運動会の本番はさすがにお客さんもたくさんきてくださり、かっこいいところを見せたいと子ども達も張り切っていたので結果としていい運動会だった、ということになったのだろうが、運動会は日頃の体育学習の発表の場だ。そのときだけよければすべてよかった、ということにしてよいのだろうか。

災害は忘れた頃にやってくる。

ニュースで時々大きな地震が報じられると、私はいつも今子どもが学校にいる時間かな、ということが気になる。そんな時に子ども達を無事に避難させなくてはならない先生方の責任は非常に大きなものがある。非常時にこんなに統制のとれない子ども達だったら、彼らを無事に避難させられるかどうか。正直、自分は、といわれると自信がなくなってしまう。

いまや体育だけでなく、というか、体育でさえも子どもにそれほど厳しいことを言わなくなってしまった。訓練、というと聞こえは悪いのかもしれないが、子どもの命を守るという意味では、ある程度は日頃からの練習が必要であると思わされた運動会だった。

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払えよ!給食費!!!

また新聞にのっている!

給食費を払わないバカ親のこと!!!

もちろん生活が苦しくて困っている人のことではない。バカ親たちは、高級車に乗り、普通以上の生活をしているのに払いたくないから払わない、といっているというのだからあきれる。

その子どもは食べさせなければいいかというとそんなことはない。悪いのは親で子どもに罪はない。そんなことが原因でいじめが起こる可能性だってある。

そんな学校側の考えを逆手にとって、本当にずるい。人間として、親として、そんな姿を子どもに見せていいのか。

今は払っている子ども達が犠牲になって給食の質を落とすことで全員に供給しているというが、そんなことで払わないもん勝ちになってしまったら、私も私も、という人が増えかねない。そうしたら、本当に、本当にありがたい給食制度そのものの破綻につながってしまうかもしれないではないか。

忙しいお母さん、そうでないお母さんも、毎朝お弁当を作ることになってしまったらそれはもう大変なことだ。私には無理だ。

給食はプロの栄養士さんが考えた、食べて安心、栄養ばっちりの理想的な食事なのだ。

恥ずかしながら料理があまり得意でない私は、自分が作っている料理が子どもにとってバランスいいおいしい食事であるという自信があまりない。

食べている自分が時々貧血になったりするくらいなので、きっとバランスとして偏っているに違いない。

しかし、そこに1食給食が加わるだけでそれほど健康維持の点でたすかっていることか。

仕事柄私の昼食も毎日給食だがいつもその内容に感心する。

サラダにしても、汁物にしても、使っている食材の数を数えただけでとても家庭ではできないといつも思っている。もちろん味も健康を考えた薄味、しかもおいしい。

早い話が私は給食の大ファンなのである。そんな給食をいつも食べさせていただけることをすごくありがたいと思っている。

その給食をバカにする行為はばちあたりなのだ!!!

給食費を払わない皆さん、自分のことばかり考えて、ほかの人が困っていても関係ない、と思っているかもしれないけど、そんなことばかりしているといつか結局自分に降りかかって来るんじゃないですか?

それより何より、我が子に軽蔑されるようになってしまったら、お金よりも大切な物を失ってしまいますよ。

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30代を雇用して!

私は30代後半だ。

ベビーブームの数年手前、しかしそれなりに同世代の数が多く、大学に入るにも卒業後に仕事を探すにも競争率が高かった。

しかも大学在学中にバブルが崩壊し、それから経済は長い長い低迷の時代にはいっていった。

正月の新聞に、私たちの年代の記事が載っていた。

私たちの年代は、会社が人件費削減のために社員を減らしてきたおり、パートやアルバイト社員として会社を支えてきた人が多いという。現在の景気回復の陰にはそうした一人一人の努力があったのである。

しかしその記事には、企業の経営状態が安定してきても、その人達を社員として雇用する考えがない会社が多い、とあり、憤りを感じた。企業は、一から教育するのであればやはり若い社員がいいという考えなのである。誰のお陰で会社はやってこられたのか。従業員を大切にしない会社はそのうち自分の首を絞めることになるだろう。

私は幸い仕事には就いているが、同年代の同僚はほとんどいない。ずっと若いか、ずっとベテランの方々に挟まれている。

昔は友だちが少なくてつまらない、位に考えていたが、それだけではすまされない。今、私たちの年代はパパ、ママまっさかりだからだ。

少子化の歯止めに先が見えない日本。いま、子どもを育てるべき年代の人が、これでは子どもどころか、家族を持つこともできない状況だ。少子化対策のために、児童手当を手厚くしたり、子どもを預ける環境をととのえることはとても喜ばしいことだが、それよりなにより雇用だ。

人間が普通に家族を持って普通に暮らせる社会に一日も早くなって欲しいと願うばかりである。

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テレビは親子で

週末によく、子どもと図書館へ行く。

図書館では娘はきまってビデオを2本借りる。

アニメのビデオや「おかあさんといっしょ」などが多いが、暴力シーンの多い最近のアニメを見せるよりも図書館のものは安心して見せられる物が多い。

たとえば昔放映していた宮城真理子さんの「世界昔話」や、世界名作劇場など、子どもに見せながら自分も懐かしい気持ちで見ることができる。

その中に、ディズニーのドナルドダックのビデオがあり、ディズニーなら安心と思って借りてきたのだが、その内容にがっかりした。

子どものいたずらをほほえましく描いた作品だったのだろうが、全編を通してドナルドは自分の甥である小さなアヒルたちやミッキーの姿をした子ども達にいじめられていた。

ディズニー作品だけに、動きがユーモラスでテンポもよく、娘は夢中になって見ていたが、私は内心それを借りてきて失敗だったと思ってしまった。ドナルドが子ども達にやっつけられるたびに、娘も歓声を上げて笑っていたからだ。

そこで私は言ってみた。

「ママ、このお話きらいだよ。」

娘はびっくりしたように聞く。

「なんで?なんで?」

「だって、みんなでドナルドに意地悪してるじゃん。ドナルドかわいそうだよね。」

それを聞いて娘ははっとしたようだった。

「そうだよね、いけないんだよね。でも、ミッキーはドナルドをいじめてなかったね。」

ミッキーが大好きな娘はミッキーをかばった。

しかし、私はこのやりとりでとてもほっとした。

同時に、いろいろなアニメを有害だと決めつけて見せないようにするより、一緒に見て会話を通していろいろな考え方を育てた方がいい場合もあると言うことに気がついた。

もちろん、子ども一人で見せていたら会話も生まれないし、子どもはテレビの中の出来事を肯定し、影響を受けてしまうだろう。

以前、このブログで、今は子どもにとって不適切な内容のテレビ番組がおおく、見せないようにしたほうがよい、と書き、そのように私もがんばってきたが、見せないようにすればするほど見たくなるのが子どもでもある。それよりも、その内容についてこれはいいよね、これはやっちゃいけないよね、その理由もあわせて子どもと話し合うようにしたほうがいい、と考えを改めた。そうすることで、いずれは子どもが自分で番組を選べるようになるだろう。

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